天皇の称号について
古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といった。天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。10世紀以降、1000年近く「天皇」号の使用は廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
在位中の天皇は、帝、御門(みかど)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)、禁中(きんちゅう)、御所(ごしょ)などと呼ばれた。当代の天皇は「当今の帝(とうぎんのみかど)」などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。
皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語として「治天の君」がある。
話題にする際の呼称については、一般的に、「皇上」「聖上」「聖主」「主上」「天子」などが用いられてきたが、明治中期頃になり、「天皇(陛下)」という呼称が定着してくる。
特に外交においては、古代から、「日本国皇帝」も用いられる。
神代
代
氏名
在位期間
事績
3代
549 B.C. – 511 B.C.
綏靖天皇33年7月15日 – 安寧天皇38年12月6日
10代
97 B.C. – 30 B.C.
崇神天皇元年1月13日 – 同68年12月5日
詔を発して万世一系を謳った
四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言
戸口を調査して初めて課役を課した
任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた
古墳時代
3世紀中頃 – 7世紀頃
『日本書紀』や『古事記』による文献上の大和時代
推定・比定される天皇在位期間と記紀の記述には不一致があるため、便宜的に垂仁天皇以降を古墳時代とする
代
氏名
在位期間
事績
21代
456 – 479
安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日
考古学で存在が確認された最古の天皇
地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大、強力な専制君主として君臨
吉備氏の乱
養蚕の推奨
新羅への出兵
呉(南朝)への遣使(倭王武?)
23代
485 – 487
顕宗天皇元年1月1日 – 同3年4月25日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に地方に逃れる
24代
488 – 498
仁賢天皇元年1月5日 – 同11年8月8日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に地方に逃れる
25代
488 – 498
仁賢天皇11年12月 – 武烈天皇8年12月8日
大伴金村を大連とする
法令を用いて厳正に訴訟を取り扱った
『日本書紀』では異常性癖(異常行動)が記されている
26代
507.3.3 – 531.3.10
継体天皇元年2月4日 – 継体天皇25年2月7日
武烈天皇崩御後、越前国高向から迎えられる
527: 磐井の乱起る
27代
531.2.7 – 535.12.17
継体天皇25年2月7日 – 安閑天皇2年12月17日
66歳にして即位したが、わずか4年で崩御
531: 辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)による2朝並立の説もあり
28代
536.1 – 539.3.15
宣化天皇元年12月 – 宣化天皇4年2月10日
満69歳にして即位
筑紫の官家の整備
大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送る
ca.536: 蘇我稲目を大臣に任命、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる
29代
539.12.30 – 571.5.24
宣化天皇4年12月5日 – 欽明天皇32年4月15日
540: 大伴金村が失脚
552: 百済から仏像と経文が伝来(日本への本格的な仏教伝来)
562: 新羅が任那を滅ぼす
30代
572.4.30 – 585.9.14
敏達天皇元年4月3日 – 敏達天皇14年8月15日
ca.578: 金剛組が宮大工の集団として発足
ca.585: 物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせる
31代
585.10.3 – 587.5.21
敏達天皇14年9月5日 – 用明天皇2年4月9日
崇仏派で仏法を重んじ、王朝において仏教を公認
587: 蘇我馬子・厩戸皇子ら、物部守屋を討滅
32代
587.9.9 – 592.12.12
用明天皇2年8月2日 – 崇峻天皇5年11月3日
588: 飛鳥寺が建立
591: 任那復興軍を筑紫に派遣
592: 蘇我馬子が東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
飛鳥時代
代
氏名
在位期間
事績
33代
593.1.15 – 628.4.15
崇峻天皇5年12月8日 – 推古天皇36年3月7日
34代
629.2.2 – 641.11.17
舒明天皇元年1月4日 – 舒明天皇13年10月9日
630: 第一回遣唐使
637: 蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる
35代
642.2.19 – 645.7.12
皇極天皇元年1月15日 – 皇極天皇4年6月14日
36代
645.7.12 – 654.11.24
皇極天皇4年6月14日 – 白雉5年10月10日
645: 史上初めて元号を立て「大化」とする
鍾匱の制
646: 改新の詔
- 公地公民
- 班田収授法
- 国郡里制
37代
655.2.14 – 661.8.24
斉明天皇元年1月3日 – 斉明天皇7年7月24日
史上初の重祚
659: 阿倍比羅夫が粛慎 (みしはせ)を討つ
–
661 – 668.2.20
天智天皇元年 – 天智天皇7年1月3日
40代
673.3.20 – 686.10.1
天武天皇2年2月27日 – 朱鳥元年9月9日
皇親政治
681: 飛鳥浄御原令の編纂を命じる
684: 八色の姓を定める
ca.685: 式年遷宮の制が立てられる(690とも)
奈良時代
代
氏名
在位期間
事績
43代
707.8.18 – 715.10.3
慶雲4年7月17日 – 和銅8年9月2日
44代
715.10.3 – 724.3.3
霊亀元年9月2日 – 養老8年2月4日
718: 藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める
720: 『日本書紀』が完成
723: 三世一身法が制定
45代
724.3.3 – 749.8.19
神亀元年2月4日 – 天平感宝元年7月2日
47代
758.9.7 – 764.11.6
天平宝字2年8月1日 – 天平宝字8年10月9日
平安時代
- 794年 平安京に遷都
- 866年 藤原良房が人臣初の摂政に任じられる
- 887年 藤原基経が関白に任じられる
- 1087年 堀河天皇に譲位した白河上皇が院政を始める
摂関政治(藤原頼道まで)
年代 | 天皇 | 摂政 | 関白 |
---|---|---|---|
858年 | 清和 | ||
866年 | 応天門の変 良房(外祖父) | ||
876年 | 陽成 | 基経(外伯父) | |
887年 | 宇多 | 阿衡事件 基経(岳父) | |
891年 | 寛平の治 | ||
897年 | 醍醐 延喜の治 | ||
930年 | 朱雀 | 忠平(外伯父) | |
941年 | 忠平(外伯父) | ||
946年 | 村上 | 忠平(外伯父) | |
967年 | 冷泉 | 実頼(大伯父) | |
969年 | 円融 | 実頼(大伯父) | |
970年 | 伊尹(外伯父) | ||
973年 | 兼通(外伯父) | ||
977年 | 頼忠 | ||
984年 | 花山 | 頼忠(岳父) | |
986年 | 一条 | 兼家(外祖父) | 寛和の変 |
990年 | 兼家(外祖父) | ||
道隆(外伯父) | |||
道隆(外伯父) | |||
993年 | 道隆(外伯父) | ||
995年 | 道兼(外伯父) | ||
996年 | 長徳の変 | ||
1011年 | 三条 | ー | ー |
1016年 | 後一条 | 道長(外祖父) | |
1017年 | 頼通(外叔父) | ||
1020年 | 頼通(外叔父) | ||
1036年 | 後朱雀 | 頼通(外叔父) | |
1045年 | 後冷泉 | 頼通(外叔父) |
院政(承久の乱まで)
年代 | 天皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1087年 | 堀河 | 白河 | ||||||||
1107年 | 鳥羽 | |||||||||
1123年 | 崇徳 | 鳥羽 | ||||||||
1129年 | 没 | |||||||||
1142年 | 近衛 | 崇徳 | ||||||||
1155年 | 後白河 | |||||||||
1156年 | 没 | 保元の乱 | ||||||||
1158年 | 二条 | 後白河 | ||||||||
1165年 | 六条 | 二条 没 | ||||||||
1168年 | 高倉 | 六条 | ||||||||
1176年 | 没 | |||||||||
1179年 | 治承三年の政変 | |||||||||
1180年 | 安徳 | 高倉 | ||||||||
1181年 | 院政を復活 | 没 | ||||||||
1183年 | 後鳥羽 | |||||||||
1192年 | 没 | |||||||||
1198年 | 土御門 | 後鳥羽 | ||||||||
1210年 | 順徳 | 土御門 | ||||||||
1221年 | 仲恭 | 承久の乱 隠岐に配流 | 承久の乱 土佐に配流 |
代
氏名
在位期間
事績
50代
781.4.30 – 806.4.9
天応元年4月3日 – 延暦25年3月17日
51代
806.4.9 – 809.5.18
延暦25年3月17日 – 大同4年4月1日
806: 六道観察使を初めて設置
807:『古語拾遺』成る
807: 伊予親王の変
52代
809.5.18 – 823.5.29
大同4年4月1日 – 弘仁14年4月16日
810: 薬子の変(平城太上天皇の変)
814: 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる(嵯峨源氏、賜姓源氏の始まり)
53代
823.5.29 – 833.3.22
弘仁14年4月16日 – 天長10年2月28日
825: 高棟王に平姓を賜う
831: 滋野貞主が日本最古の類書(百科事典)の『秘府略』1000巻を編纂する
833: 清原夏野ら『令義解』を撰集
54代
833.3.22 – 850.5.4
天長10年2月28日 – 嘉祥3年3月19日
838: 小野篁を隠岐国に配流
838: 承和の遣唐使(事実上の最後の遣唐使)
842: 承和の変
55代
850.5.4 – 858.10.7
嘉祥3年3月19日 – 天安2年8月27日
ca.850: この頃から班田制の崩壊はじまる
850: 橘嘉智子没、嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)、学館院を設立
56代
858.10.7 – 876.12.18
天安2年8月27日 – 貞観18年11月29日
59代
887.9.17 – 897.8.4
仁和3年8月26日 – 寛平9年7月3日
887: 阿衡事件(阿衡の紛議)
藤原基経を関白に正式任命
891: 寛平の治
894: 遣唐使派遣が停止
60代
897.8.4 – 930.10.16
寛平9年7月3日 – 延長8年9月22日
66代
986.8.1 – 1011.7.16
寛和2年6月23日 – 寛弘8年6月13日
皇后定子清少納言が仕える
中宮彰子に紫式部・和泉式部が仕える
995: 長徳の変
68代
1016.3.10 – 1036.5.15
長和5年1月29日 – 長元9年4月17日
糖尿病により崩御
1017: 三条天皇の第一皇子敦明親王が藤原道長に無言の圧迫を掛けられ、自ら東宮を辞退
→冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれる
70代
1045.2.5 – 1068.5.22
寛徳2年1月16日 – 治暦4年4月19日
1045: 寛徳の荘園整理令
1051 – 1062 前九年の役
71代
1068.5.22 – 1073.1.18
治暦4年4月19日 – 延久4年12月8日
宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇として即位
1069: 延久の荘園整理令、記録荘園券契所が設置
延久の善政
1070: 延久蝦夷合戦
73代
1087.1.3 – 1107.8.9
応徳3年11月26日 – 嘉承2年7月19日
白河上皇による院政の始まり
「末代の賢王」(『続古事談』)と評される
77代
1155.8.23 – 1158.9.5
久寿2年7月24日 – 保元3年8月11日
78代
1158.9.5 – 1165.8.3
保元3年8月11日 – 永万元年6月25日
79代
1165.8.3 – 1168.4.9
永万元年6月25日 – 仁安3年2月19日
数え2歳(満7か月と11日)でに践祚(歴代最年少での皇位への即位)
81代
1180.3.18 – 1185.4.25
治承4年2月21日 – 寿永4年3月24日
数え年3歳(満1歳2か月)で践祚
1180: 福原行幸
1183: 源義仲の入京、平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ち
1183.9.8 三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚
1185.4.25 壇ノ浦で入水し崩御
鎌倉時代
- 1221年 承久の乱
代
氏名
在位期間
事績
82代
1183.9.8 – 1198.2.18
寿永2年8月20日 – 建久9年1月11日
正史上初めて同時に2人の天皇が擁立される(- 1185.4.25)
1183: 寿永二年十月宣旨を源頼朝に下す(頼朝の東国支配権を承認する)
1185: 文治の勅許を源頼朝に与える(頼朝が守護・地頭を設置することを許す)
1192: 源頼朝を征夷大将軍に任ずる
1196: 建久七年の政変
84代
1210.12.12 – 1221.5.13
承元4年11月25日 – 承久3年4月20日
1219: 鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、皇族将軍の上奏を後鳥羽上皇が拒否
1221:『禁秘抄』を著す
85代
1221.5.13 – 1221.7.29
承久3年4月20日 – 7月9日
86代
1221.7.29 – 1232.11.17
承久3年7月9日 – 貞永元年10月4日
10歳で践祚
1226: 将軍宣下により藤原頼経が鎌倉幕府の4代将軍となる
1229: 安貞二年の政変
89代
1246.2.16 – 1260.1.9
寛元4年1月29日 – 正元2年11月26日
1246: 宮騒動
1252: 異母兄の宗尊親王が第6代将軍として鎌倉に迎え入れられる(親王将軍の成立)
90代
1260.1.9 – 1274.3.6
正元元年11月26日 – 文永11年1月26日
1272: 後嵯峨法皇が崩御、鎌倉幕府の内諾を得て、亀山天皇親政が始まる(両統迭立の起り)
96代
南1
1318.3.29 – 1339.9.18
文保2年2月26日 – 延元4年8月15日
南北朝時代
年代 | 南朝 | 北朝 | 室町幕府 |
---|---|---|---|
1318年 | 後醍醐(96)① | ||
1331年 | 元弘の乱 | 光厳❶ | |
1333年 | 建武の新政 | ||
1336年 | 光明❷ | ||
1338年 | 尊氏1⃣ | ||
1339年 | 後村上(97)② | ||
1348年 | 崇光❸ | ||
1350年 | 観応の擾乱 | ||
1351年 | 正平一統 | ||
1352年 | 後光厳❹ | ||
1359年 | 義詮2⃣ | ||
1368年 | 長慶(98)③ | ||
1369年 | 義満3⃣ | ||
1371年 | 後円融❺ | ||
1382年 | 後小松❻ | ||
1383年 | 後亀山(99)④ | ||
1392年 | 南北朝合一 | 後小松(100) |
南朝
代
氏名
在位期間
事績
97代
南2
1339.9.18 – 1368.3.29
延元4年8月15日 – 正平23年3月11日
1350: 観応の擾乱、足利直義が南朝に降伏
1351: 次いで、足利尊氏も南朝に降伏し正平一統が成立
尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与える
北朝崇光天皇を廃位、北朝が一次的に消滅
三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収
99代
南4
1383.冬 – 1392.11.19
弘和3年冬 – 元中9年閏10月5日
1392: 三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一を実現(明徳の和約)
北朝
代
氏名
在位期間
事績
北2
1336.9.20 – 1348.11.18
建武3年8月15日 – 貞和4年10月27日
北3
1348.11.18 – 1351.11.26
貞和4年10月27日 – 観応3年11月7日
1350: 観応の擾乱、足利直義が南朝に降伏
1351: 次いで、足利尊氏も南朝に降伏し正平一統が成立、北朝の一次的消滅により廃位
1352: 光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁が南朝に拉致される
北5
1371.4.9 – 1382.5.24
応安4年3月23日 – 永徳2年4月11日
管領細川頼之の支持で即位
1375:『新後拾遺和歌集』を義満の執奏により下命
1379: 興福寺内紛を巡る春日神木の入洛(康暦の強訴)
室町時代
- 1392年11月19日 南北朝合一(明徳の和約)
代
氏名
在位期間
事績
北6
↓
100代
1382.5.24 – 1392.11.19
永徳2年4月11日 – 明徳3年閏10月5日
1392.11.19 – 1412.10.5
明徳3年閏10月5日 – 応永19年8月29日
皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始→これは、南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、以後、南朝方の武装蜂起が頻発する
102代
1428.9.7 – 1464.8.21
正長元年7月28日 – 寛正5年7月19日
1439:『新続古今和歌集』が成立
1438年永享の乱、1441年嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給
1443: 禁闕の変、後南朝が御所に乱入、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れる
1457-1458: 長禄の変、後南朝の行宮を襲い、神璽を嘉吉の乱により滅亡した赤松家の遺臣が奪い返す
1462: 皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与える
103代
1464.8.21 – 1500.10.21
寛正5年7月19日 – 明応9年9月29日
戦国時代
- 1467年 – 1477年:応仁・文明の乱
代
氏名
在位期間
事績
106代
1557.11.17 – 1586.12.17
弘治3年10月27日 – 天正14年11月7日
1570年の朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年の石山本願寺と織田信長の戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命による
安土桃山時代(織豊時代)
- 1573年:足利義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡
代
氏名
在位期間
事績
107代
1586.12.17 – 1611.5.9
天正14年11月7日 – 慶長16年3月27日
1588.1: 室町将軍・足利義昭が征夷大将軍職を朝廷に返上、義昭に准三宮の待遇を与える
1588.4: 豊臣秀吉の招きにより、聚楽第行幸
1609: 猪熊事件
江戸時代
代
氏名
在位期間
事績
108代
1611年5月9日 – 1629年12月22
慶長16年3月27日 – 寛永6年11月8日
1619: およつ御寮人事件(万里小路事件)
1627: 紫衣事件
1629: 金杯事件(家光乳母が無位無官でありながら拝謁し、「春日局」の名号及び天酌御盃を賜る)
109代
1629.12.22 – 1643.11.14
寛永6年11月8日 – 寛永20年10月3日
5歳で即位
母は徳川秀忠の娘で、徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇
111代
1655.1.5 – 1663.3.5
承応3年11月28日 – 寛文3年1月26日
実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったため、ワンポイントリリーフとして即位
112代
1663.3.5 – 1687.5.2
寛文3年1月26日 – 貞享4年3月21日
禁闕騒動(皇継をめぐる幕府・後水尾院・東福門院と天皇の争い)
1681: 小倉事件
1683: 300年ぶりの立太子礼を経て朝仁親王(五宮)を皇太子とする
113代
1687.5.6 – 1709.7.27
貞享4年3月25日 – 宝永6年6月21日
父から譲位されて践祚、霊元上皇の院政はじまる
長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活
1701: 松之大廊下の刃傷事件(江戸へ派遣した勅使の柳原資廉・高野保春の接待をめぐり、接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかる)
御料(皇室領)が1万石から3万石となり、朝廷の財政面が著しく好転する
114代
1709.7.27 – 1735.4.13
宝永6年6月21日 – 享保20年3月21日
117代
1747.6.9 – 1762.8.31
延享4年5月2日 – 宝暦12年7月12日
太上天皇として後の尊号一件(1789年-)を収め、国母と呼ばれる
118代
1771.1.9 – 1779.12.16
明和7年11月24日 – 安永8年11月9日
1773 – 1774: 安永の御所騒動(口向役人の不正が江戸幕府によって摘発)
119代
1780.1.1 – 1817.5.7
安永8年11月25日 – 文化14年3月22日
1789 – 1793: 尊号一件(父・典仁親王に太上天皇号を贈ろうとして幕府の反対に遇い断念)
一世一元の制導入以前に譲位した最後の天皇
120代
1817.5.7 – 1846.2.21
文化14年3月22日 – 弘化3年1月26日
崩御後に実現する皇族や公家の子弟のための教育機関の設置に尽力→「学習院(京都学習院)」
121代
1846.3.10 – 1867.1.30
弘化3年2月13日 – 慶応2年12月25日
1847: 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
1858: 日米修好通商条約の調印勅許について衆議するも「定見なし」
1858.4.25: 廷臣八十八卿列参事件
1858.9.14: 戊午の密勅
1862.3.11: 皇妹和宮親子内親王の降嫁
1862.5.14: 公武合体推進のため島津久光が兵を率いて入京 朝廷、幕府に三事策を求める
1863.4.21: 徳川家茂上洛
1863.6.6: 攘夷実行の勅命

1863.9.29: 天誅組の変
1863.9.30: 八月十八日の政変(七卿落ち)
1863.11.22: 生野の変
1864.2.7-4.14: 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)
1864.5.2: 天狗党の乱
1864.7.8: 池田屋事件
1864.8.20: 禁門の変(蛤御門の変)

1866: 廷臣二十二卿列参事件
近代
代
氏名
在位期間
事績
122代
1867.2.13 – 1912.7.30
慶応3年1月9日 – 明治45年7月30日
123代
1912.7.30 – 1926.12.25
明治45年7月30日 – 大正15年12月25日
124代
1926.12.25 – 1989.1.7
大正15年12月25日 – 昭和64年1月7日
1927.2.7 北原二等卒直訴事件
1929.10-1931: 昭和恐慌(世界恐慌)
1931.9.18: 満洲事変
1932.1.8 桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)
1932: 五・一五事件
1933.3: 国際連盟脱退
1936: 二・二六事件
1937.11.30 日中戦争起る
1939.9.1 第二次世界大戦勃発
1941.12.8 太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃)

1945.8.15: ポツダム宣言受諾(玉音放送)
1946.1.1: 天皇人間宣言

1946.2.19-1954.8 昭和天皇の戦後巡幸
1947.5.3: 日本国憲法施行
1952.4.28 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効
1964.10: 東京五輪開会式で開会宣言を行う
1971.6.17: 沖縄返還協定
1972.2: 札幌五輪開会式で開会宣言を行う
125代
1989.1.7 – 2019.4.30
昭和64年1月7日 – 平成31年4月30日
1992.10: 中華人民共和国政府の招待で同国を訪問
1998年長野オリンピックの開会式で開会宣言を行う
2009.12.15 習近平中華人民共和国副主席と会見(天皇特例会見、1ヶ月ルール)
2011.3.16 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、ビデオメッセージを放送
2016.8.8 『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明(生前退位(譲位))
126代
2019.5.1 – 在位中
令和元年5月1日 – 在位中
59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目となる高齢での即位
2021.7.23 2020年東京オリンピックの開会式で開会宣言を行う
参考リンク
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