- イタリア首相の名称について
- イタリア王国 (1861年–1946年)
- カミッロ・カヴール
Camillo Benso, Conte di Cavour - ベッティーノ・リカーソリ
Bettino Ricasoli - ウルバーノ・ラッタッツィ
Urbano Rattazzi - ルイージ・ファリーニ
Luigi Farini - マルコ・ミンゲッティ
Marco Minghetti - アルフォンソ・マルモラ
Alfonso Ferrero, Marchese de La Marmora - ベッティーノ・リカーソリ
Bettino Ricasoli - ウルバーノ・ラッタッツィ
Urbano Rattazzi - フェデリーコ・メナブレーア
Federico Luigi, Conte Menabrea - ジョヴァンニ・ランツァ
Giovanni Lanza - マルコ・ミンゲッティ
Marco Minghetti - アゴスティーノ・デプレーティス
Agostino Depretis - ベネデット・カイローリ
Benedetto Cairoli - アゴスティーノ・デプレーティス
Agostino Depretis - ベネデット・カイローリ
Benedetto Cairoli - アゴスティーノ・デプレーティス
Agostino Depretis - フランチェスコ・クリスピ
Francesco Crispi - アントニオ・ルディニ
Antonio Starabba, Marchese di Rudinì - ジョヴァンニ・ジョリッティ
Giovanni Giolitti - フランチェスコ・クリスピ
Francesco Crispi - アントニオ・ルディニ
Antonio Starabba, Marchese di Rudinì - ルイージ・ペルー
Luigi Pelloux - ジュゼッペ・サラッコ
Giuseppe Saracco - ジュゼッペ・ザナルデッリ
Giuseppe Zanardelli - ジョヴァンニ・ジョリッティ
Giovanni Giolitti - トンマーゾ・ティットーニ
Tommaso Tittoni - アレッサンドロ・フォルティス
Alessandro Fortis - シドネイ・ソンニーノ
Sidney Sonnino - ジョヴァンニ・ジョリッティ
Giovanni Giolitti - シドネイ・ソンニーノ
Sidney Sonnino - ルイージ・ルッツァッティ
Luigi Luzzatti - ジョヴァンニ・ジョリッティ
Giovanni Giolitti - アントニオ・サランドラ
Antonio Salandra - パオロ・ボセッリ
Paolo Boselli - ヴィットーリオ・オルランド
Vittorio Orlando - フランチェスコ・ニッティ
Francesco Nitti - ジョヴァンニ・ジョリッティ
Giovanni Giolitti - イヴァノエ・ボノーミ
Ivanoe Bonomi - ルイージ・ファクタ
Luigi Facta - ベニート・ムッソリーニ
Benito Mussolini - ピエトロ・バドリオ
Pietro Badoglio - イヴァノエ・ボノーミ
Ivanoe Bonomi - フェルッチョ・パッリ
Ferruccio Parri - アルチーデ・デ・ガスペリ
Alcide De Gasperi
- カミッロ・カヴール
- イタリア共和国 第一共和政(1846年–1992年)
- アルチーデ・デ・ガスペリ
Alcide De Gasperi - ジュゼッペ・ペッラ
Giuseppe Pella - アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani - マリオ・シェルバ
Mario Scelba - アントニオ・セーニ
Antonio Segni - アドネ・ツォーリ
Adone Zoli - アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani - アントニオ・セーニ
Antonio Segni - フェルナンド・タンブロニ
Fernando Tambroni - アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani - ジョヴァンニ・レオーネ
Giovanni Leone - アルド・モーロ
Aldo Moro - ジョヴァンニ・レオーネ
Giovanni Leone - マリアーノ・ルモール
Mariano Rumor - エミリオ・コロンボ
Emilio Colombo - ジュリオ・アンドレオッティ
Giulio Andreotti - マリアーノ・ルモール
Mariano Rumor - アルド・モーロ
Aldo Moro - ジュリオ・アンドレオッティ
Giulio Andreotti - フランチェスコ・コッシガ
Francesco Cossiga - アルナルド・フォルラーニ
Arnaldo Forlani - ジョヴァンニ・スパドリーニ
Giovanni Spadolini - アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani - ベッティーノ・クラクシ
Bettino Craxi - アミントレ・ファンファーニ
Amintore Fanfani - ジョヴァンニ・ゴリーア
Giovanni Goria - チリアーコ・デ・ミータ
Ciriaco De Mita - ジュリオ・アンドレオッティ
Giulio Andreotti
- アルチーデ・デ・ガスペリ
- イタリア共和国 第二共和政(1992年–現在)
- ジュリアーノ・アマート
Giuliano Amato - カルロ・チャンピ
Carlo Ciampi - シルヴィオ・ベルルスコーニ
Silvio Berlusconi - ランベルト・ディーニ
Lamberto Dini - ロマーノ・プローディ
Romano Prodi - マッシモ・ダレマ
Massimo D’Alema - ジュリアーノ・アマート
Giuliano Amato - シルヴィオ・ベルルスコーニ
Silvio Berlusconi - ロマーノ・プローディ
Romano Prodi - シルヴィオ・ベルルスコーニ
Silvio Berlusconi - マリオ・モンティ
Mario Monti - エンリコ・レッタ
Enrico Letta - マッテオ・レンツィ
Matteo Renzi - パオロ・ジェンティローニ
Paolo Gentiloni - ジュゼッペ・コンテ
Giuseppe Conte - マリオ・ドラギ
Mario Draghi - ジョルジャ・メロー二
Giorgia Meloni
- ジュリアーノ・アマート
- 参考リンク
- あわせて読みたい
イタリア首相の名称について
正式名称は閣僚評議会議長で、イタリア語では Presidente del Consiglio dei Ministri 。イタリアの行政府の長として、すなわち首相として「内閣の首席」という位置づけで行政権を統括する。そこから、日本語訳では「首相」ということになっている。
首相は大統領が任命する。内閣成立後10日以内に両議院(上院:共和国元老院、下院:代議院)の信任を得なければならない。この時、被任命権が国会議員に限るという憲法上の規定が無いため、両院からの信任(支持)を取り付けることができれば非議員でも首相に就任できる。
首相に議会解散権は無く、大統領のみが有する。議院内閣制をとっており、内閣は議会の信任を得なければならない。
イタリア王国 (1861年–1946年)
サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア国王に即位し、イタリア王国が成立した。
サルデーニャ王国の宰相だったカミッロ・カヴールが新たにイタリア王国の首相に就任した。彼は、それまで3回内閣を率いているので、イタリア王国としては、彼の第4次内閣から数える。
イタリア王国期、イタリア王国閣僚評議会の議長 ( Presidente del Consiglio dei ministri del Regno d’Italia ) と呼ばれていた。
ムッソリーニが閣僚評議会議長に就任後、1925年12月24日に独裁体制を確立、独裁権を持つ国家指導者として認識され、ドゥーチェ: Duce(国家指導者、統帥、統領)の称号で呼ばれた。
代
氏名
内閣
在任期間
事績
初代
初代
1861.3.17 – 1861.6.6
2代
2代
1861.6.6 – 1862.3.4
第1次リカーソリ内閣
1861.6: ローマ教皇庁との和解失敗
1861.10.9 旧サルデーニャ王国のラッタッツィ法に基づく地方行政制度(県・コムーネ)を全国に施行→中央集権化
南部で山賊大反乱が続く(-1863.8)
ガリバルディの志願兵のほとんどを正規軍に編入、マッツィーニの追放を取り消し
1862.2.1 シチリアの総督制廃止
3代
3代
1862.3.4 – 1862.12.9
第1次ラッタッツィ内閣
1862.3.22 サンマリノ共和国との最初の条約に調印
1862.8.24 通貨リラを導入
1862.8.29 アスプロモンテの戦:ガリバルディ義勇軍と王国正規軍の衝突
4代
4代
1862.12.9 – 1863.3.24
ファリーニ内閣
ポーランドのロシアに対する反乱でロシアに宣戦布告→ガリバルディ義勇軍から派兵
精神を病み辞職
5代
5代
1863.3.24 – 1864.9.23
第1次ミンゲッティ内閣
1863.8.15: 山賊大反乱に対する軍事法廷措置を定めたピーカ法公布
1864.9.15 九月条約:ローマに駐屯していたフランス軍を 2 年以内に撤退させる(秘密条項で、首都をトリノからフィレンツェに遷都することを約する)
この秘密条項が公になることでトリノ虐殺が起き辞任
6代
7代
8代
1866.6.17 – 1867.4.10
8代
9代
1867.4.10 – 1867.10.27
第2次ラッタッツィ内閣
1867.8.15 教会所有地没収法公布
10.19 ガリバルディの逮捕に失敗、教皇領へ逃す
9代
10代
1867.10.27 – 1868.1.5
第1次メナブレーア内閣
1867.11.3 ローマ解放のため挙兵したガリバルディ、メンターナで教皇軍を破るが仏軍に敗れる
11代
1868.1.5 – 1869.5.13
第2次メナブレーア内閣
1868.5 下院で製粉法可決
北部の閣僚だけで構成され、ピエモンテのみでなく地主や南部の急進派からも厳しい批判を受ける
1869.1 第三次イタリア独立戦争の戦費調達に発行した国債支払のため、製粉税を導入
12代
1869.5.13 – 1869.12.14
第3次メナブレーア内閣
1869.12.8 バチカン公会議開会
10代
13代
1869.12.14 – 1873.7.10
11代
14代
1873.7.10 – 1876.3.25
第2次ミンゲッティ内閣
1874.6 第1回イタリア・カトリック会議開催
8月 リミニで共和派指導者28名逮捕、アナーキスト蜂起計画失敗、バクーニンはスイスに逃れる
9.1 国家の経済介入に批判的なアダム・スミス教会設立
9.10 教皇ピウス9世、回勅「ノン・エクスペディト」でカトリック教会の国政選挙への参加を禁止
1975.1 国家による社会政策を求める経済研究促進協会設立
1876.3.16 財政均衡の達成を議会報告、鉄道の国有化方針の承認を求める
製粉税に対する動議が否決され、内閣象辞職(15年続いた右派政権が終焉)
12代
13代
17代
1878.5.25 – 1878.12.19
1878.7.1 仏との新通商協定(関税率引き上げ)発効
8.18 モンテ・アミアータの預言者ラッザレッティ、軍隊との交戦で射殺
1878.11.17 アナキストのパッサナンテによるウンベルト 1 世の暗殺未遂(カイローリ自身も負傷)
15代
16代
21代
1881.5.29 – 1883.5.25
22代
1883.5.25 – 1884.3.30
1883.7.8 全国労働災害保険公庫設立
11.25 デプレーティス首相のトラスフォルミズモに批判的な議会左派の5幹部がペンタルキーア(5人組)形成
1884.1.1 製粉税廃止
1月 エディソン式電気会社設立
23代
1884.3.30 – 1885.6.29
17代
18代
29代
1891.2.6 – 1892.5.15
第1次ルディニ内閣
1891.5.15 教皇レオ13世、労働問題に関する回勅「レールム・ノワールム」
19代
30代
1892.5.15 – 1893.12.15
1893.1.19 ローマ銀行汚職で頭取タンロンゴ逮捕
7.30 コルレオーネでパレルモ県勤労者ファッシ大会
8.10 発券銀行を統一してイタリア銀行設立
8.17 仏エーグモルトでイタリア移民労働者30名殺害
20代
21代
32代
1896.3.10 – 1896.7.11
第2次ルディニ内閣
1896.3.15 人口1万人以下のコムーネ首長も選挙による選出とする政令(7.29法制化)
4.5 1年期限でシチリアに文民コミッサリーオ制度導入(7月法制化)
33代
1896.7.11 – 1897.12.24
第3次ルディニ内閣
1896.9.30 チュニジアに関する協定をフランスと締結
10.26 エチオピアとアディス・アベバ講和条約締結
34代
1897.12.24 – 1898.6.1
第4次ルディニ内閣
1898.3.6 急進派指導者カヴァロッティ、王党派議員との決闘で死亡
3.17 労働災害保険法公布
4.26 凶作によるパン価格高騰、ロマーニャ地方で食糧暴動→全国に拡大
35代
1898.6.1 – 1898.6.29
第5次ルディニ内閣
1898.7.17 老齢・障害保険公庫設立
11.21 フランスと通商協定締結
22代
36代
1898.6.29 – 1899.5.14
第1次ペルー内閣
37代
1899.5.14 – 1900.6.24
第2次ペルー内閣
1899.7.11 トリノの自動車メーカー、フィアット社設立
23代
38代
1900.6.24 – 1901.2.15
サラッコ内閣
1900.7.29 国王ウンベルト1世、アナーキストに暗殺される
12.18 ジェノバ港湾労働者スト→リグーリア地方のゼネストに拡大
1901.1.31 新移民法制定(移民審査の委員会設置)
24代
39代
1901.2.15 – 1903.11.3
1901.10 イタリア・コムーネ協会設立大会
1902.6.19 女性労働・児童労働保護法制定
11月 労働会議所連合と産業別労働組合の連絡機関として中央抵抗書記局設置
1903.3.29 公共サービス部門の行営化法公布
25代
40代
1903.11.3 – 1905.3.12
27代
42代
1905.3.28 – 1905.12.24
第1次フォルティス内閣
1905.4.19 下院、鉄道国営化法可決
11.20 カトリック民主派ムッリ、全国民主同盟結成
43代
1905.12.24 – 1906.2.8
第2次フォルティス内閣
1906.2 カトリック人民連合、カトリック社会経済連合、カトリック選挙連合結成
28代
44代
1906.2.8 – 1906.5.29
1906.7.28 教皇ピウス10世、回勅でムッリの全国民主同盟を批判
29代
45代
1906.5.29 – 1909.12.11
1908.4 第1回全国女性会議開催、カトリック系と非カトリック系の不一致が表面化
4.30 パルマの労働会議所(革命的サンディカリスト派)、農業労働者のゼネスト突入を宣言、3か月に及ぶ闘争
1909.2.20 マリネッティ、パリ『フィガロ』誌で未来主義宣言
3.7 教皇庁、総選挙において72選挙区で「ノン・エクスペディト(ふさわしくない)」をやめ、カトリック議員16人当選
3.14 サルヴェーミニ、論文『暗黒街の大臣』を発表、ジョリッティ首相の南部政策を批判
32代
48代
1911.3.30 – 1914.3.21
33代
34代
51代
1916.6.18 – 1917.10.23
ボセッリ挙国一致内閣
1916.8.27 ドイツに宣戦布告
1917.10.24 イタリア軍、カポレットで大敗
35代
52代
1917.10.23 – 1919.6.23
1917.11.9 国防最高長官、カドルナからディアツに交代、イタリア軍ピアーヴェ川沿いに防衛体制構築
1918.9 社会党第15回大会で左派指導部選出
10.24-11.3 イタリア軍総攻撃、ヴィットーリオ・ヴェネートで勝利
11月 オーストリア・ドイツと休戦協定
12.11 社会党指導部、社会主義革命の目標を宣言(最大限綱領主義)
1919.3.23 ムッソリーニ「イタリア戦闘ファッシ」結成
4.24 イタリア代表団、パリ講和会議ボイコット
36代
37代
55代
1920.6.15 – 1921.7.4
1920.11.12 ユーゴスラビアとラパッロ条約締結
12.24 イタリア軍、フィウメ占領者を排除(血のクリスマス)
1921.1 社会党第17回大会で最左派分離
1.21 イタリア共産党結成
5.15 総選挙、全535議席のうちファシスト35名を含んだナショナル・ブロック275議席
38代
56代
1921.7.4 – 1922.2.26
第1次ボノーミ内閣
1921.8.2 社会党とファシスト議員グループの間で平和協定
11.7 戦闘ファッシを国民ファシスト党(PNF)に改組
39代
57代
1922.2.26- 1922.8.1
第1次ファクタ内閣
58代
1922.8.1 – 1922.10.31
第2次ファクタ内閣
1922.10 社会党第19大会で改良派分離、改良派社会主義者「統一社会党」結成(書記長マッテオッティ)
10.27-28 北・中部でファシスト動員とローマ進軍
40代
59代
1922.10.31 – 1943.7.25
ムッソリーニ内閣
1922.11.24 議会、23年末まで行政・経済問題の全権を政府に委任する議決
1922.12 王家・党・政府の意見調整の場としてファシズム大評議会が設立
1923.2.1 政令で首相直属の国家機関として全国治安民兵隊(黒シャツ隊)を設置

1923.4.27 文相ジェンテーレの教育改革
7.21 下院、新選挙法(アチュルボ法)可決
8.31 イタリア軍、コルフ(ケルキラ)島占領

1924.1.27 ユーゴスラヴィアとのローマ協定でフィウメ取得
6.10 統一社会党議員マッテオッティ、ファシストに拉致・暗殺される
6.27 野党議員、議会審議を拒否(アヴェンティーノ連合)
1925.1.3 ムッソリーニ、議会演説で力による支配を宣言、ファシズム体制の建設始まる
10月 ロカルノ条約締結
11.4 ムッソリーニ首相襲撃未遂事件
12.24 首相の権限を強める政府首長大権法公布
1926.12.31 ファシスト暦導入
1927.12.21 1ポンド90リラで金本位制復帰
1929.2.11 ラテラノ条約でイタリア国家とローマ教皇庁と和解、バチカン市国形成

1931.11.13 イタリア動産機構(IMI)設立
1933.1.23 産業復興機構(IRI)設立
1933.9.2 ソ連と5年間の友好条約締結
1935.10.3 イタリア軍、エチオピア侵攻開始(第二次エチオピア戦争)

1936.5.9 ムッソリーニ、帝国復活の演説、エチオピア・エリトリア・ソマリアをイタリア領東アフリカ(AOI)とし、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がエチオピア皇帝即位
11.1 ムッソリーニ、演説でローマ・ベルリン枢軸と表現
1937.11.6 日独伊防共協定
12.11 国際連盟脱退
1938.9 英仏独伊ミュンヘン会談
1939.4.6 イタリア軍、アルバニア侵略
9.1 第二次世界大戦勃発

1940.6.10 英仏に宣戦布告(9月に仏と休戦)
9.27 日独伊三国同盟
12.11 独伊がアメリカに宣戦布告
1942.10.23 英軍、北アフリカのエル・アラメインで反攻
1943.7 ムッソリーニ首相罷免・逮捕
41代
60代
1943.7.25- 1944.4.17
(軍事政権)
1943.7.28 ファシスト党解散、ファシズム大評議会廃止
9月 連合国と休戦
9.9 国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とバドリオ首相、ローマ脱出しブリンディジに政権を置く
9.18 救出されたムッソリーニがサロでファシスト党再建とイタリア社会共和国樹立を宣言
10.13 バドリオ政権、ドイツに宣戦布告
1944.2.11 バドリオ政権、サレルノに移動
42代
62代
1944.6.18 – 1945.6.19
第2次ボノーミ内閣
1944.10.27 連合軍、フィレンツェ-ボローニャ間のドイツ軍防衛線ゴート・ラインで進軍停止
12.12 社会党と行動党不参加の改造ボノーミ内閣成立
1945.4.28 北イタリア国民解放委員会、裁判権を行使してムッソリーニを銃殺刑
44代
64代
1945.12.10 – 1946.7.1
イタリア共和国 第一共和政(1846年–1992年)
代
氏名
内閣
在任期間
事績
初代
初代
1946.7.10 – 1947.2.2
1946.12.26 ネオ・ファシスト党「イタリア社会運動」結成
1947.1 デ・ガスペリ訪米
1.9-11 社会党第25回大会、サーラガトら菟は分裂してイタリア勤労者社会党結成
3代
1947.5.31 – 1948.5.23
5代
1950.1.27 – 1951.7.26
1950.3 南イタリアで未墾地の占拠広まる
5.12 シーラ屋山土地改革法公布
8.10 南部開発公庫設立
1951.4.18 欧州石炭鉄鋼共同体条約調印
5.1 イタリア勤労者社会党と統一社会党が合併してイタリア社会民主党結成
6代
1951.7.26 – 1953.7.16
1952.5.9 トリエステ自由地区に関する米英伊3国会議
1953.1.21 下院、得票率50%以上に達した政党(連合)が385議席(65.3%)を獲得できる選挙法改正を可決
2.10 全国炭化水素公社(ENI)設立
6.7-8 共和政第2回総選挙、与党連合得票率48.95%
2代
8代
1953.8.17 – 1954.1.12
4代
10代
1954.2.10 – 1955.7.6
5代
11代
1955.7.6 – 1957.5.15
6代
12代
1957.5.19 – 1958.7.1
8代
14代
1959.2.15 – 1960.3.23
1959.3.14 聖女ドロテーア修道院で開いたキリスト教民主党派閥集会で最大派閥ドロテーア派誕生
9代
15代
1960.3.25 – 1960.7.26
10代
16代
1960.7.26 – 1962.2.21
17代
1962.2.21 – 1963.6.21
社会民主党・共和党を加えた連立内閣
1962.3.23 障害・老齢年金の30%引上げと小学校教科書の無償化を閣議決定
7.7 トリノ憲法広場でフィアット労働者らと警官隊の衝突、組合の統制を越えた自立的労働運動の始まり
10.11 第2回バチカン公会議開催
11.27 下院で電力産業国有化法可決
1963.4.10 ローマ教皇ヨハネス23世、平和問題に関する回勅
4.28-29 総選挙
11代
18代
1963.6.21 – 1963.12.4
1963.10.25-29 社会党第35回大会でキリスト教民主党との連立方針が多数決
12代
13代
22代
1968.6.24 – 1968.12.12
1968.10.23 統一社会党第1回大会で党名を社会党に変更
14代
24代
1969.8.5 – 1970.3.27
1169.11.25 共産党中央委員会、マニフェストグループを除名
12.12 ミラノ中心街の銀行で極右グループの爆弾で16名死亡 「緊張の戦略」始まる
12.12 ミラノ銀行爆破で誤認逮捕されたアナーキストが警察署で死亡
25代
1970.3.27 – 1970.8.6
1970.5.16 州設置法により新たに15州が成立
5.20 労働者憲章制定
5.25 憲法に定められた国民投票制度(レファレンダム)設置
7.21 リビア政府、イタリア人入植者の追放と財産没収
15代
26代
1970.8.6 – 1972.2.17
16代
28代
1972.6.26 – 1973.7.26
1972.7.13 プロレタリア統一社会党、解党して共産党に合流
12.15 良心的徴兵忌避を認める法制定
1973.1.22 リラ二重為替相場制(金融リラの変動制)導入、この後リラの下落続く
7.24 政府、インフレ抑制のため主要食料品価格を3か月凍結
17代
18代
31代
1974.11.23 – 1976.2.12
1975.1.25 工業総連盟と3大労組の間で賃金の物価スライド制を協定
3.8 選挙権を20歳から18歳に引き下げ
4.11 イタリア放送協会(RAI)の管理が政府から議会に移行、チャンネルの政党別割当が生じる
4.22 夫婦間の法的な同等の権利などを認めた家族法制定
5.21 治安維持法(レアーレ法)制定
7.12 イタリアとスペインの共産党首脳会談でユーロ・コミュニズム路線
10.1 ユーゴスラビアとのオージモ条約で国境線画定
1976.1.20 リラ防衛のため外国為替市場を閉鎖
2.10 政界にロッキード汚職の疑惑
19代
20代
21代
38代
1980.10.18 – 1981.6.28
1981.3.22 インフレ率21%に達し、リラの為替レートを6%引き下げ、公定歩合2.5%引き上げて19%とする
4.4 赤い旅団最高幹部モレッティ逮捕
5.20 フリーメイソン「ロッジP2」に加盟の政・財・軍・警察・メディア関係962人のリスト公表
22代
39代
1981.6.28 – 1982.8.23
40代
1982.8.23 – 1982.12.1
23代
41代
1982.12.1 – 1983.8.4
1983.7.8 急進党候補者リストで当選したネーグリ、議員免責特権で釈放
24代
26代
45代
1987.7.28 – 1988.4.13
1987.12.16 マフィア大裁判判決で被告456人のうち有罪342人(終身刑19人)、無罪114人
27代
46代
1988.4.13 – 1989.7.22
28代
47代
1989.7.22 – 1991.4.12
48代
1991.4.12 – 1992.6.28
1992.2.7 欧州連合(EU)条約(マーストリヒト条約)調印
2.17 社会党ミラノ市幹部、収賄容疑で逮捕 「清い手」と呼ばれることになるミラノ検察チームの汚職捜査開始
4.5-6 総選挙実施、北部同盟が下院で55議席獲得
5.23 マフィア大裁判の立役者だった法務省刑事局長ファルコーネ夫妻と護衛警官がマフィアに爆殺
イタリア共和国 第二共和政(1992年–現在)
タンジェントポリ(イタリア語: Tangentopoli)は「汚職の町」という意味で、イタリアの政官業の癒着を表現した言葉である。1992年から始まった大規模な汚職捜査とその結果としての政界再編までを指す。
この過程で、初の非政治家内閣であるカルロ・アツェリオ・チャンピが内閣発足した。
代
氏名
内閣
在任期間
事績
29代
49代
1992.6.28 – 1993.4.28
4党連立内閣成立
1992.7.19 ファルコーネの同僚ボルセッリーノ判事と護衛警官がマフィアに爆殺
9.17 政府、リラ下落で欧州通貨制度の為替相場メカニズム(ERM)からの離脱および社会保障費抑制などの財政赤字削減策発表
1993.1.1 欧州共同体統一市場発足
3.25 県・市町村首長の選出を住民の直接選挙とする法制定
4.18 国民投票で上院選挙法の改正、国家持株省の廃止などが決まる
30代
50代
1993.4.28 – 1994.5.10
イタリア銀行総裁チャンピ首班の超党派内閣成立
1993.8.3 下院定数630のうち75%(475)を小選挙区、25%(155)を比例区で選出する併用方式の選挙法成立
11.1 マーストリヒト条約発効、欧州連合(EU)発足
1994.3.27-28 総選挙実施、フォルツァ・イタリアを中心とする右派連合が勝利
31代
51代
1994.5.10 – 1995.1.17
32代
52代
1995.1.17 – 1996.5.17
33代
53代
1996.5.17 – 1998.10.21
共産主義再建党の閣外協力でプローディ内閣成立
1996.9.13-15 北部同盟、パダーニア共和国の独立を宣言してポー川デモ
11.24 欧州通貨統合参加を目標にリラ高水準で為替相場メカニズムに復帰
1997.10.13 労働時間を2001年度に週35時間に短縮する合意でプローディ首相続投決まる
10.20 テレコム・イタリア(イタリア通信・電話公社)民営化
34代
35代
56代
2000.4.25 – 2001.6.11
2000.6.28 産業復興公社(IRI)解散
10.18 民主主義者(プローディ・グループ)と人民党などで政治団体マルゲリータ結成
2001.5.13 総選挙実施、フォルツァ・イタリアを中心とする右派連合「自由の家」が大勝
36代
57代
2001.6.11 – 2005.4.23
2001.7.20-22 ジェノヴァ開催のサミット(主要国首脳会議)に対する抗議行動デモで1名射殺

10.14 第40回ペルージャ=アッシジ平和行進に20万人参加
11.7 議会、アフガニスタンへのイタリア軍派兵承認
2002.1.7 裁判官買収容疑の被告ベルルスコーニと側近弁護士プレヴィティの裁判官忌避請求で、政府と司法界の対立深まる
3.19 赤い旅団、福祉・労働相顧問ビアージ暗殺
3.23 労働者憲章18条改悪に反対する300万人デモ
3.24 政党マルゲリータ結成
6.20 政府の司法改革に反対する全国司法官協会スト
7.11 指紋押捺の義務化や強制排除を定めた移民対策法(ボッシ=フィーニ法)成立
11.5 下院、被告が進行中の裁判を別の裁判所に移す請求のできる条項を加えた刑事訴訟法改正案(チラーミ法)を可決
2003.1.28 破棄院(最高裁)、ベルルスコーニとプレヴィティによるミラノ地裁からブレッシャ地裁への裁判移行請求を却下
4.15 議会、イラクへのイタリア軍派遣を承認
6.18 大統領・首相・上下両院議長・憲法裁判所長官の5名は在任中の刑事訴追を免れ、係争中の裁判は凍結するという免責特権・裁判凍結法を下院可決
12.2 メディア所有規制を緩和するメディア法(ガスパッリ法)成立
12.15 チャンピ大統領、メディア法に署名せずに再議を求めて両議院に差し戻す
12.23 ベルルスコーニ所有のメディアを保護する緊急政令
2004.1.13 憲法裁判所、免責特権・裁判凍結法に違憲判決
4.20 憲法裁判所、移民対策法(ボッシ=フィーニ法)中の強制排除条項を違憲判決
4.29 メディア改革法(新ガスパッリ法)成立
11.23 司法改革案に反対する司法官・弁護士の終日スト
12.1 法相に強い権限を認める司法改革法を議会可決
12.16 チャンピ大統領、司法改革法に署名せずに再議を求めて両議院に差し戻す
12.10 ベルルスコーニの贈賄罪裁判で1件時効、1件無罪判決
37代
59代
2006.5.17 – 2008.5.8
中道・左派9党連立内閣成立
2006.6.29 憲法改正を問う国民投票で反対61.3%
7.28 与党連合最左派の反対でもめたアフガニスタン駐留延長を上院で承認
7.29 閣内不統一のまま恩赦法成立
12.1 政府、アリタリア航空の保有株売却を表明
2007.2.8 同性婚を含む事実婚カップルに通常婚夫婦と同等の資格を認める共同生活に関する権利と義務(DICO)法案を閣議決定
38代
60代
2008.5.8 – 2011.11.16
自由の人民(自由国民党)による右派政権
2011.2 汚職に対する追及が本格化し、ミラノ地裁から未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴
内閣退陣と政界引退
11.9 大統領ジョルジョ・ナポリターノがマリオ・モンティを名誉職の終身上院議員に指名
39代
61代
2011.11.16 – 2013.4.28
40代
62代
2013.4.28 – 2014.2.22
中道右派と中道左派による史上初の大連立政権
2013.6.28 若者の失業対策としてヨーロッパの基金から15億ユーロを受け取ると発表
2013.10.3 リビアからイタリアへの移民を乗せた船がランペドゥーサ島沖で沈没
性急な経済政策を党内から批判され辞職
41代
63代
2014.2.22 – 2016.12.12
わずか2カ月足らずの間にフィレンツェ市長から首相へと上り詰める
2016.12.4 上院や地方政府の持つ権限の削減を進める憲法改正を問う国民投票が否決、改正案否決を条件にしていたため首相を辞任
42代
64代
2016.12.12 – 2018.6.1
43代
44代
67代
2021.2.13 – 2022.10.22
2022.7.15 連立政権を組む五つ星運動が政権に対する事実上の信任投票となるインフレ対策をめぐる採決への参加を拒否
7.20 上院で政権への信任投票が行われ、主要与党のうち、五つ星運動の他、同盟とフォルツァ・イタリアも投票をボイコットしたため辞任
2022.9.25 総選挙実施、イタリアの同胞が第一党となる
45代
68代
2022.10.22 – 現職
イタリアの同胞/同盟/フォルツァ・イタリアの右派による連立政権、イタリア初の女性首相
参考リンク

↗文字化けしているように見えるがリンクは生きている
あわせて読みたい



コメント