600 B.C. から A.D. 2020 までの国家の興亡を一覧年表に整理
縦軸に時系列をとり、横軸はユーラシア大陸を中央に経度別に地域を配置した2次元の年表
取り上げたのは、世界の覇権をめぐる戦いに参加した国家群と、各地域別のローカルパワーとなった国家群
地政学の視点からできるだけ重要な地域軸を選択したが、Webブラウザー上での一覧性確保のために、ラテンアメリカ、エジプトを除くアフリカ、パレスチナ、東南アジア、オセアニア、大洋州は割愛している。
(それらを含む「地域別興亡史」は順次公開中)
上記2次元年表を手許で確認したい場合は、上記ダウンロードボタンからExcelファイルが提供されている。
年代別の解説
紀元前
アルゲアス朝マケドニア王国( アレクサンドロス帝国)
初めて世界征服が意識されたのは、アレクサンドロス大王 (356 B.C. – 323 B.C.)による西方遠征かもしれない。弱冠32歳で、アドリア海からインダス河畔までを初めて一人の統治者のもとに統一し、後にヘレニズム文化を生み出すことになる。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、その征服地は、5.2百万㎢ (3.49%) である。
1世紀から5世紀まで
この時代は、ユーラシア大陸の東西でそれぞれ大帝国が成立し、その間をシルクロードと通称されるルートは、通商を求める商人の往来で賑わった。
ローマ帝国
西は、ローマ帝国における「五賢帝」の2代目として名高いトラヤヌス (53 – 117)が東方のパルティア遠征により、112年にローマ帝国の最大版図を実現した。
その遠征の軌跡から、アレクサンドロス大王に並べた称賛を受けることもある。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、その最大版図は、6.5百万㎢ (4.36%) になる。
後漢
同じ頃、東では、後漢の第4代和帝 (88 – 106)の治下、西域都護である班超が北匈奴やクシャーナ朝を追って西域に後漢の勢力を拡大したことにより最大版図が実現する。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、その最大版図は、6.5百万㎢ (4.36%) になる。
3世紀は洋の東西で、民族大移動が同時発生し、文明地の大国がそれぞれ崩壊に向かう。
西では、フン族に押されたゲルマン民族の大移動がローマ帝国を侵し、東西にローマ帝国が分裂した後、西ローマ帝国の故地で次々とゲルマン民族の国家が建設された。
東では、五胡十六国時代と呼ばれ、西晋が華北を北方騎馬民族に譲り、華中・華南に逃れて東晋を建国する。
6世紀から10世紀まで
この時代は、西アジアと東アジアで大国が勃興した。
唐
東アジアでは、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えた第9代玄宗 (685 – 762) の治下、715年に最大版図を実現する。
その後、安史の乱が起き、唐は急速に国力を落とすことになる。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、その最大版図は、5.4百万㎢ (3.75%) になる。
アッバース朝
西アジアでは、ムハンマドがイスラム教とともに興したイスラム帝国が、正統カリフ時代、ウマイヤ朝を経てアッバース朝にて、750年に最大版図を実現する。
これは、751年のタラス河畔の戦いで唐と直接対決し、ズィヤード・イブン・サーリフが高仙芝を破ることになる1年前である。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、その最大版図は、11.1百万㎢ (7.45%) になる。
11世紀から15世紀まで
モンゴル帝国
この時代は、陸の王者たる騎馬民族が世界統一に最も近づいたのかもしれない。いわずと知れた、チンギス・カン (1162 – 1227)が創建したモンゴル帝国である。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1265年から1361年にかけて、ユーラシアの平原を突き進んで拡張していったその最大版図は、33.0百万㎢ (22.29%) になる。
ティムール帝国
モンゴル帝国の継承国家のひとつとして、西チャガタイ・ハン国から1代で大帝国を築いたのがティムール (1366 – 1405) である。
ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗ったという。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、ティムール帝国の最大版図は、4.6百万㎢ (2.95%) になる。
1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国を破った後、明国への遠征途上で病死した1405年がティムール帝国が最大の勢力範囲を保持した時となった。
明
モンゴル帝国の系譜を持つ元を北に追いやり、朱元璋(太祖洪武帝)が立てた中国の王朝である。
第7代景泰帝 (1428 – 1457) 治下の1450年に最大版図を誇るようになる。
景泰帝は、実兄である先帝 英宗が、1449年に交易の拡大を求めたオイラトの指導者エセンとの野戦で捕虜になるという土木の変の後、北防体制を建て直しを図った。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、明の最大版図は、6.5百万㎢ (4.36%) になる。
16世紀から18世紀まで
スペイン
1479年のカスティーリャ王国とアラゴン王国の同君連合が形成されてから、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、イベリア半島からイスラーム勢力を一掃した頃から、1898年の米西戦争に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間、王号を称していたが、これを広大な領土を支配していたことからスペイン「帝国」と呼ぶ慣わしになっている。
その権勢を誇った時期は黄金世紀(Siglo de oro)と呼ばれ、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つことから、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。
絶対主義の代表的君主の一人であるフェリペ2世 (1527 – 1598) は、1580年からポルトガル国王も兼務するようになり、イタリア、ネーデルランドをはじめとして、中南米、アフリカ、インド、フィリピンといった海外植民地を収めるようになり、治世が終わる1598年が最盛期であると言われている。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1598年における最大版図は、20.0百万㎢ (13.03%) になる。
オスマン帝国
在位46年の中で13回もの対外遠征を行った第10代皇帝スレイマン大帝 (1494 -1566) がオスマン帝国の最盛期を築いた統治者であることは揺るぎない事実である。
確かに、第一次ウィーン包囲(1529年)、イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、1538年にはプレヴェザの海戦に勝利して地中海の制海権を掌握した。
しかし、領土的には、スレイマン大帝が残した巨額の財政支出と朝廷の混乱を収めて大宰相の地位に就いたキョプリュリュ家の執政期に、クレタ島やウクライナにまで領土を拡大、さらにはヴェネツィアが失ったクレタ島の代わりに得たギリシャにおける各地域の大部分を手中に収めたことで、スレイマン時代に勝る最大版図を達成した。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1683年の第二次ウィーン包囲を強行する直前に実現された最大版図は、5.2百万㎢ (3.49%) になる。
ムガル帝国
バーブルが、1526年に第一次パーニーパットの戦いでローディー朝(デリー・スルターン朝のひとつ)を破り、インド平原を制圧して建国された。
そのアクバルを曾祖父に持つ第6代君主アウラングゼーブ (1618 – 1707) の治世の末が、ムガル帝国が最大版図を誇った時期にあたる。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1707年における最大版図は、4.6百万㎢ (2.95%) になる。
清
祖父の康熙帝、父の雍正帝から第6代高宗乾隆帝 (1711 – 1799) の三代にわたってが最盛期で、清は東洋一の大国として東アジアに君臨した。
乾隆帝の代に「十全武功」と呼ばれる10回の外征があり、清の版図は最大規模 (1790年) にまで広がったとされる。異論として、次の仁宗嘉慶帝治世の末 (1820年) とする説もある。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1790年(または1820年)における最大版図は、14.7百万㎢ (8.79%) になる。
19世紀以降
ポルトガル
カピタニア制による一種の封建体制によりポルトガル海上帝国として海外植民地を統括した。1815年には正式国名を「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」と改称し、ブラジル公国を本国と同格の王として統治機構に取り込んだ頃が最盛期といわれている。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1815年における最大版図は、10.4百万㎢ (6.98%) になる。
ロシア帝国
アレクサンドル2世 (1818 – 1881) の治下、1867年の米国へのアラスカ売却直前の1866年が最大領土を誇った時期とされる。
1861年に農奴解放令を実施、司法権の行政権からの独立、国家予算の一本化、徴税請負制の廃止、国立銀行創設、大学を自由化、基礎的公教育の無償化などといった大改革を推進していた時期に重なる。
しかし、ポーランドやリトアニアで自治を求める分離主義運動、ベラルーシやウクライナでは民族主義の反乱が起き、これらの騒乱を抑えるために政権は反動的になったと言われている。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1866年における最大版図は、23.7百万㎢ (15.31%) になる。
大英帝国
モンゴル帝国が陸の王者ならば、大英帝国は海の覇者である。
歴史上、「太陽の沈まない国」と呼ばれるのは、ハプスブルク家のスペイン王国(スペイン帝国) と七年戦争後のイギリス(イギリス帝国)である。
第一次世界大戦以後における自治領の政治的、外交的独立の成長を是認無償した「バルフォア報告書」が1926年の帝国会議で、アイルランド自由国とアフリカーナー主体の南アフリカ連邦が帝国離脱の要求を受けて提出された。
イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとされ、1931年にウェストミンスター憲章が発表、海外自治領に外交権も与え、既に事実上成立していたイギリス連邦体系に法的根拠を与えたものになった。
世界の陸地総面積を総面積148,939百万㎢ とすれば、1918年における最大版図は、33.7百万㎢ (22.63%) になる。
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