日本の政党史の流れ(戦前)
自由民権運動
日本の政党政治の嚆矢は、憲法制定、国会開設のための自由民権運動の中で生まれたといっても過言ではない。
日本での自由民権運動は、薩長閥を中心とする藩閥政治に、明治六年政変・明治十四年の政変を経て、土肥閥が対抗するという門閥や地縁・人脈が絡む勢力争いの側面もあった。
それゆえ、自由民権運動を推進しようとする民党と、門閥政治を推し進めようとする吏党(温和派)という対抗軸をもって日本の政党政治がスタートする。
民党 | 吏党 |
---|---|
自由党 | 立憲帝政党 |
立憲改進党 | 国民協会 |
超然主義と政党内閣
1885年(明治18年)12月に成立した日本初の第1次伊藤内閣は、薩長を中心とする藩閥出身者で構成された。第2代内閣総理大臣の黒田清隆が大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日に、超然主義演説がなされ、政党の影響の外で内閣を運営する旨が表明された。
大日本帝国憲法は、プロイセン型の立憲君主制を採用し、議院内閣制(政党内閣制)を明示していない。しかし、予算案を審議する国会運営の中で、徐々に政党の影響力が増していくことになる。
第2次伊藤内閣では第一党である自由党と連立内閣を成立させ、1898年(明治31年)に、自由党と進歩党が合同して憲政党となり民党の勢力が結集したことで、日本史上初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立するに至る。
さらに、伊藤は議会運営を円滑にするために議院内閣制(政党内閣制)の本格導入を企図、立憲政友会を結党し、総裁に就任する(1900年)。同年、第4次伊藤内閣で、官僚派と立憲政友会からなる本格的な政党内閣制の形を確固たるものにする。
その後、明治の終わりから大正の初めにかけて、陸軍・山県閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者たる立憲政友会第2代総裁の西園寺公望が交代で内閣を組織する桂園時代が訪れる。
超然内閣と政党内閣が政権交代を果たすことで、国会運営の円滑化と民主主義への意識が醸成され、これが大正デモクラシーへと続くことになった。
普通選挙法と無産政党の勃興
内政・外交、軍備拡張と、多種多様な争点毎に、超前内閣と政党内閣による政権交代が続き、次第に政党同士の合従連衡が政治家個人の勢力争いの色合いから政権闘争の色合いも濃くしていく中で、急速な社会経済の発展により、有産階級(ブルジョワジー)に対する、労働者などの無産階級(プロレタリアート)の発言力が増していった。
政府もこうした動きを受けて、治安維持法を用いて共産党を非合法化し取り締まりを強化する中で、それ以外の無産政党を合法化し、普通選挙法の施行後、1928年の第16回衆議院議員総選挙で、無産政党が8議席を獲得することになった。
●第16回衆議院総選挙で議席を獲得した無産政党
これにより、日本の政党政治には、吏党⇔民党という対立軸に、有産政党⇔無産政党という対立軸が増えることになる。
強まる軍事色と大政翼賛会
1929年9月、ニューヨークの株価部落に端を発する世界恐慌(大恐慌)により金融危機が引き起こされた。金本位制に復帰していた各国が金流出に対応するため、市中金利を上げざるを得なかった。経済不況に自国通貨の切り下げ、金利上昇とトリプルショックを受けた各国は、自国産業保護のため、ブロック経済が進展する。
資源獲得と市場確保のためのブロック経済は、通貨危機による外貨交換の停止や停滞により自己強化型ループに陥り、ブロック経済の強化または自国経済圏の拡大という目的に、国家統制の強化と軍備拡張という手段で応えようとした。
左派・右派問わず、こうした統制強化のために政治制度・政党制度を用いた。その最たるものが、日独伊のファシズムと、ソ連の全体主義的共産主義であった。
※ナチスは、昨今では適切な和訳の当否に対する議論が高まっているが、「国家社会主義ドイツ労働者党」「国民社会主義ドイツ労働者党」など、いずれも「社会主義」の語が当てられている。
日本でも、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「ABCD包囲網」という言葉が躍り、満州事変→日中戦争→太平洋戦争と、軍部の台頭と全体戦争への道を避けることができなかった。
やがて、穏健な多党制を標榜していたほぼ全ての既存政党が自発的に解散し、1940年10月「大政翼賛会」に合流することになった。
※ 非合法化されていた共産党、紆余曲折があるが、結社禁止や一斉検挙の処分を受けた立憲養正會・東方会といった一部例外を除く全ての既存政党が大政翼賛会(翼賛政治体制協議会)に参加
こうして、日本の政党政治の世界に、国粋系政党⇔自由主義政党という3本目の対立軸が深く刻まれることになった。
日本の政党の系譜(戦前)
下記は、Excelファイルでまとめた日本の政党の系譜(戦前)に関する2D年表になる。
なお、写真を Wikimedia Commons から参照できない場合は割愛している。
このExcelファイルは、スクロールで全体を確認することができる。全体を俯瞰したい場合は、上記からExcelファイルをダウンロードされることをお勧めする。
カバー範囲として、時系列的には、1881年(明治14年)の国会開設の詔が出て、板垣退助が自由党を結党するところから、1945年(昭和20年)の鈴木貫太郎内閣の総辞職まで、質的には、政治結社から政党、院内会派まで、人脈と党勢と政治史の流れが理解できる粒度で取り上げた。
年表の左右(水平)は、原則として、左から保守系政党(民党・有産政党)→国粋系政党(吏党)→革新系政党(無産政党)の順で並べている。
一部、政党の離合集散の配置の都合で並べ替えている。特に、 革新系政党(無産政党) における左右の位置は、完全に左派・右派の順になっていない(説明の都合上、共産党が最右翼に位置している)。
Excelファイルには、政党名、内閣、衆議院の総選挙、写真にハイパーリンクで参考記事に飛べるようになっている。適宜活用していただきたい(Web画面からでも各リンクに飛ぶことができる)。
なお、本サイトの運営者には特定の政治的信条は無く、あくまで学究的に取り上げている。詳細な事実関係の流れや名称等に認識の祖語が発見された場合は、「お問い合わせ」からご連絡頂ければ幸いである。
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