- インドネシア大統領について
- インドネシア共和国成立(1949年-)
- スカルノ
Sukarno (Soekarno) - スハルト
Soeharto, Haji Muhammad Soeharto - スハルト
Soeharto, Haji Muhammad Soeharto - ユスフ・ハビビ
Bacharuddin Jusuf Habibie - アブドゥルラフマン・ワヒド
Abdurrahman Wahid - メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ
Diah Permata Megawati Setiawati Sukarnoputri - スシロ・バンバン・ユドヨノ
Susilo Bambang Yudhoyono - ジョコ・ウィドド
Ir. H. Joko Widodo - プラボウォ・スビアント
Prabowo Subianto Djojohadikoesoemo
- スカルノ
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インドネシア大統領について
1945年憲法の策定中に、独立準備調査会(BPUPK)によって大統領制が整えられた。
インドネシア共和国の国家元首であり、政府の長でもある。大統領はインドネシア政府の行政府を率いており、インドネシア国軍の最高司令官でもある。国民に対して直接責任を負う。
2001年の憲法改正以前は国民協議会によって選出されていたが、2004年以降、大統領と副大統領は5 年の任期で直接選出され、再任されると最大10年間在職することができる。立候補者は国民議会に一定比率の議席を有する政党もしくは政党の連合が 擁立することと定められている。
インドネシア共和国成立(1949年-)
- 1945.8.17 インドネシア独立宣言
- 1949.12 オランダ-インドネシア円卓会議(ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認
- 1949.12.27 インドネシア連邦共和国成立
- 1950.8.17 全ての構成国がインドネシア共和国に合流
代
氏名
期
在任期間
事績
初代
スカルノ
Sukarno (Soekarno)
無所属
1
1945.8.18 – 1966.3.12
1945.8 中央国民委員会発足
1945.9 内閣発足、全国8省の知事任命、ジャカルタのイカダ広場(現ムルデカ広場)で大集会
1945.10 人民保安軍設立
三地方事件始まる
インドネシア共産党再建
1945.11 マシュミ結党
英国軍、スラバヤ制圧
第1次シャフリル内閣成立
1945.12 インドネシア社会党結党
1946.1 共和国の首都、ジョクジャカルタ移転
闘争同盟結成
人民保安軍をインドネシア共和国軍に改称
インドネシア国民党結党
1946.3 アチェ、東スマトラで社会革命
三月十七日事件
1946.7 七月三日事件
マリノ会議
1946.11 リンガジャティ協定仮調印
英国軍撤退完了
全インドネシア労働者中央機構(SOBSI)成立
1946.12 東インドネシア国建国
1947.2 リンガジャティ協定批准(3月正式調印)
1947.3 南東ボルネオ連合自治地域成立
1947.5.12 西ボルネオ自治地域成立
1947.5.12 東ボルネオ自治地域成立
1947.6.3 大ダヤク自治国成立
1947.7 アミル・シャリフディン内閣成立
オランダ、「第1次警察行動」開始
1947.7 バンカ自治国成立
ビリトン自治国成立
リアウ自治国成立
1947.8 国連安保理決議により共和国とオランダ、停戦合意
安保理、アメリカ・オーストラリア・ベルギー3国調停委員会設置を決議
ファン・モーク・ライン公表される
1947.12.25 東スマトラ国建国
1948.1 レンヴィル協定調印
ハッタ内閣発足(副大統領、大統領に責任を持つ「大統領な内閣」を組閣)
1948.1.14 バンジャル自治地域成立
1948.2 シャフリル派インドネシア社会党結党
アミル・シャリフディンら人民民主戦線結成
1948.2.20 マドゥラ国建国
1948.2.25 パスンダン国建国
1948.3 オランダ、インドネシア連邦暫定政府を樹立、ファン・モーク大統領
1948.7 インドネシア連邦暫定政府の連邦協議会が設立
1948.9 マディウン事件勃発
1948.9.2 南スマトラ国成立
1948.11 ムルバ党結党
1948.11.27 東ジャワ国成立
1948.12 オランダ、「第2次警察行動」開始
1949.1 国連安保理、オランダ非難決議、即時停戦・共和国要人釈放・主権委譲などの要求を決議
1949.3.2 中部ジャワ自治国成立
1949.7 共和国政府要人ジョクジャカルタ復帰
1949.8 ダルル・イスラーム運動のカルトスウィルヨがイスラーム国家樹立宣言
ハーグ円卓会議開始
1949.11 ウェステルリングの策動(-50.2)
1949.12 ガジャ・マダ大学設立
オランダからインドネシア連邦共和国に主権委譲
インドネシア共和国成立
1950.2 インドネシア大学設立
1950.4 南マルク共和国独立宣言
1950.5 連邦構成諸国、インドネシア共和国と「統一協定」締結
1950.8 インドネシア共和国暫定憲法(1950年憲法)を公布、連邦共和国が解散、単一共和国の再発足
1950.9 国連加盟
1951.1 アイディト、ルクマンら共産党の指導権を握る
1951.8 スラウェシでカハル・ムザカルの反乱勃発
1952.8 マシュミ分裂、インドネシア・ムスリム連盟結成、ナフダトゥル・ウラマー(NU)党結党
1952.10 十月十七日事件
1953.9 バリサン・タニ(農民戦線)再建
アチェでダウド・ブルエら自治とイスラーム国家建設を求める反乱
1954.8 西イリアン帰属問題を国連に提訴
オランダとの連合国家の解消を宣言
1955.2 陸軍首脳会議
1955.4 アジア・アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)
1955.9 第1回総選挙(国民党、マシュミ、NU党、共産党が4大政党として並立)
1955.12 制憲議会選挙
1956.3.20 第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立
1956.10 ルビス大佐派のクーデタ未遂事件
1956.11 制憲議会発足
1956.12 ハッタ、副大統領辞任
スマトラ、スラウェシで地方師団が「評議会」設立
1957.2 スカルノ、指導される民主主義構想発表
1957.3 東インドネシアでプルメスタ反乱発生
スカルノ、戒厳令を布告
1957.4 ジェアンダ内閣発足
1957.11 国連総会で西イリアン決議案採択されず
1957.12 オランダ企業接収運動始まる
マグランに国軍士官学校再建
1958.1 日本と平和条約・賠償協定調印
1958.2 インドネシア共和国革命政府樹立
1958.12 オランダ企業国有化法公布
1959.4 内閣が制憲議会に45年憲法への復帰を提案
1959.7.5 大統領布告によって制憲議会を解散し1950年憲法を停止、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法への復帰を布告
「実務内閣」発足(スカルノ首相、ジュアンダ筆頭大臣)
1960.1 中国と「中国人二重国籍条約」批准書交換
1960.3 国会を解散
1960.6 ゴドン・ロヨン(相互扶助)国会発足
1960.8 革命遂行と西イリアン奪還のための国民戦線を組織
マシュミと社会党の解散
オランダとの外交関係断絶
1960.9 農地基本法成立
1960.11 暫定国民協議会開会
1961 ナサコム(NASAKOM)体制構築
1961.8 10月5日までに投降した反乱者に対する「恩赦令」発表
1961.10 独立後初の国勢調査
1961.12 西イリアン解放最高司令部設置
1962.1 西イリアン沖海戦
1962.8 西イリアン協定調印
国営テレビ放送開始
1962.10 西イリアン、国連の暫定行政下に入る
1962.12 スカルノ、ブルネイ反乱支持を表明
1963.1 スカルノ、ブルネイ独立闘争を支持
1963-現在パプア紛争
1963.5 国連から西イリアンの行政権移管、戒厳令撤廃、スカルノが終身大統領となる
1963.9 マレーシア対決政策を採る、イギリス企業接収
米国が対インドネシア援助停止を発表
1963.12 共産党中央委員会総会、農村政策を決定
1964.2 アイディト共産党書記長、農地改革法の即時施行を求める「一方的行動」を提起
1964.5 スカルノ、マレーシア対決の「二大指令」を下令
1964.4 農地改革に関する中間報告公表
1964.8 インドネシア共和国軍、マレー半島侵攻作戦
1964.10 ゴルカル設立
1964.11 法相、農地改革法廷設置を発表
イギリス系企業接収相次ぐ
1965.1 国連に脱退を通告
ムルバ党の活動禁止
共産党、第5軍創設を提案
1965.8.17 世界銀行とIMFからの脱退を宣言
1965.8 スカルノ、発作で倒れる
1965.10 九月三十日事件、スハルト少将、反乱軍をほぼ鎮圧、スカルノがスハルト少将を治安秩序回復作戦司令官に任命、翌年1月にかけて治安秩序回復作戦が展開、ジャカルタで大規模な反共デモ、スハルトが陸相兼陸軍司令官就任
米国系企業接収続く
1966.1 インドネシア学生行動戦線(KAMI)ら学生が、物価引下げ、共産党解散、内閣改造を要求するデモ
1966.2 スカルノ、内閣改造
1966.3 スカルノ、政治上の権限をスハルト陸相に移譲
共産党とその傘下団体の解散令、非合法化
スハルト、暫定閣僚決定
1966.4 群衆、中国大使館襲撃
1966.6 暫定国民協議会(MPRS)、スカルノの終身大統領任命取り消し等を決定
1966.7 スハルトを内閣幹部会議長とする「アンペラ」内閣成立
1966.9 正式に国連復帰、IMF・世界銀行に復帰
1967.2 国会、スカルノ大統領解任を決議
–
1
1967.3.12 – 1968.3.27
1967.3.12 暫定国民協議会、スハルト内閣幹部会議長を大統領代行に任命
1967 外国投資法
1967.8.8 バンコク宣言により東南アジア諸国連合(ASEAN)設立
1967.10 パリでの対インドネシア債権国会議、債務繰り延べ合意
対中国国交凍結
1968.1 国会議員の再編成
2代
2
1968.3.27 – 1973.3.24
1968.3.27 暫定国民協議会、スハルト大統領代行を大統領に選任
1968.6 「開発内閣」組閣
1968.8 プルタミナ設立、翌月にイブヌ・ストウォ総裁が選出
1968.9 スカルノ前大統領、逮捕・査問
日本の経済使節団派遣
1969 第1次開発5か年計画が開始
1969.8 自由選択投票が終わり、西イリアンが正式にインドネシア領に決定
1970.1 石油値上げ反対デモ
1970.6 スカルノ前大統領死去
1971.7 独立後2回目の総選挙
1972.10 国民協議会(MPR)正式発足
1973.1 イスラーム系4党を開発統一党(PPP)に統合
非イスラーム系5党をインドネシア民主党(PDI)に統合
1973.3.23 国民協議会、スハルト大統領再選
3
1973.3.24 – 1978.3.23
1973.8 バンドンで暴動
1974.1 ジャカルタ暴動「一月十五日の厄災(マラリ)」
スハルト、治安秩序回復作戦司令部司令官スミトロを解任
大統領補佐官制度廃止
1975.8 ポルトガル領ティモールで独立をめぐり内戦開始
1975.11 フレティリン(独立革命戦線)、東ティモール民主共和国として独立宣言
親インドネシア勢力のティモール民主連合(UDT)など4勢力、インドネシアへの合体宣言
1975.12 親インドネシア派、東ティモール臨時政府樹立
1976.4 国連安保理、東ティモールに進駐のインドネシア軍の撤退要求、外相直ちに拒否
1976.5 東ティモール臨時政府、インドネシアに合併を宣言
1976.7 スハルト、東ティモール併合を宣言
1976.9 スハルト大統領退陣要求の陰謀(サウィト事件)発覚
1977.5 総選挙、ゴルカル圧勝
1977.6 学生・反体制派によるスハルト政府批判続く(-78)
1978.1 バンドン工科大学生、スハルト3選反対決議
1978.3 国民協議会、「パンチャシラの理解と実践の指針」採択
スハルト大統領3選
4
1978.3.23 – 1983.3.11
1979.1 フレティリンのロバト議長射殺を公表
1979.9 学園正常化令を出し学生運動抑圧
1980.5 反スハルト派50人、議会へ「憂国請願(50人請願)」
1980.11 スラカルタで反中国系住民暴動、以後各地へ波及
1981.9 反政府勢力、総選挙などの改革要求
1981.10 バンダ・アチェで学生らの反中国系住民暴動
1982.5 総選挙、ゴルカル圧勝
1982.8 スハルト、全ての政治勢力にパンチャシラを唯一の存立原則とすることを求める
1983.3 国民協議会、全ての社会・政治団体がパンチャシラを唯一の存立原則とすべきことを決議
スハルト大統領4選
5
1983.3.11 – 1988.3.11
1984.5 初等教育6年を義務教育化
1984.9 タンジェンプリオクで暴動
1985.1 ボロブドゥール遺跡爆破
1986.5-6 ジャカルタでゲリラ、爆破事件多発
1986.9 ルピア45%切り下げ
1987.4 総選挙
1987.10 ウジュンパンダンで暴動
1988.3 国民協議会、スハルト大統領5選
6
1988.3.11 – 1993.3.11
1988.7 カンボジア問題解決のためのジャカルタ非公式会議開催
1989.1 東ティモール州開放、住民の往来の自由など認める
1989.2 スマトラ島ランポンでムスリム組織による暴動事件
1990.8 対中国国交回復
1990.12 インドネシア・ムスリム知識人協会(ICMI)設立
1991.11 東ティモールの州都ディリで軍がデモ隊に発砲、死者50人以上(ディリ事件/サンタクルス事件)
1992.6 総選挙
1992.9 ジャカルタで第10回非同盟諸国会議開催
1993.3 国民協議会、スハルト大統領6選
7
1993.3.11 – 1998.3.10
1993.12 スカルノの娘メガワティが民主党の党首となる
1994.6 『テンポ』など6雑誌発禁
1995.8 東ティモール人が各国大使館に亡命を求める事件が続く
1996.6 民主党内紛に政府介入、メガワティ党首解任
1996.7 ジャカルタで民主党本部を占拠したメガワティ派の強制排除に反発して大暴動
1997.5 総選挙
未曽有の森林火災、周辺諸国に煙害波及、食糧危機
1997.7 アジア通貨危機
1998 マレーシア、フィリピンと共に深刻な経済危機続く
8
1998.3.10 – 1998.5.21
1998.3 国民協議会、スハルト大統領7選、これ以降、反スハルト・民主的改革を求める学生運動拡大
1998.5 石油・電気料金値上げ発表、大衆暴動頻発
軍、トリサクティ大学で学生に発砲、学生が国会占拠
スハルト大統領辞任、ハビビ副大統領昇格
3代
8
1998.5.21 – 1999.10.20
民主化を要求する各勢力の機先を制する形で政治改革を推進、政治犯の釈放、労働組合の合法化、政党設立と活動の自由化、言論・集会の自由化
1999.1 マルク諸島・アンボンの宗教紛争
1999.4 東ティモール紛争
アチェで分離運動が激化、国軍が介入し内戦化
1999.6 総選挙、スカルノの長女メガワティが率いる闘争民主党が圧勝
1999.8 東ティモール住民投票、独立を圧倒的支持
4代
アブドゥルラフマン・ワヒド
Abdurrahman Wahid
国民覚醒党(PKB)
9
1999.10.20 – 2001.7.23
イスラム指導者(ウラマー)の団体ナフダトゥル・ウラマーの議長アブドゥルラフマン・ワヒドが大統領就任、メガワティ副大統領就任
国民統一内閣
情報省を廃止、社会問題省の解体
2000 アチェなどで分離独立運動、マルクなどで地域紛争が激化
2000.3 マルクス・レーニン主義の禁止に関する1966年の暫定人民協議会 (MPRS) 決議を解除するよう提案
2000.4 ユスフ・カッラ産業通商相とラクサマナ・スカルディ国営企業相を解任
2000.5 ブローゲート/ ブルネイゲート
2000.9 マルクで戒厳令を宣言
2001.1 地方分権化二法施行
2001.7.23 国民協議会特別会議、ワヒド大統領を任期途中で罷免、メガワティ副大統領昇格
5代
メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ
Diah Permata Megawati Setiawati Sukarnoputri
9
2001.7.23 – 2004.10.20
2001.8.9 相互支援内閣
2002.10 バリ島爆弾テロ事件
2004.9.20 大統領選(決戦投票)で国軍出身のユドヨノに敗北
2004.10 総選挙、与党敗北
6代
スシロ・バンバン・ユドヨノ
Susilo Bambang Yudhoyono
10
2004.10.20 – 2009.10.20
統一インドネシア内閣
2004.12.19 モハマッド・ユスフ・カラ副大統領がゴルカルの新議長に選出
2004.12 スマトラ島沖地震
2005.8 アチェ和平合意、自由アチェ運動(GAM)は武装解除、ユドヨノ大統領がアチェから国軍を撤退させる
2009.7 大統領選でメガワティらを破って再選を果たす
11
2009.10.20 – 2014.10.20
第2次統一インドネシア内閣が発足
2013.3 民主党臨時党大会において民主党党首に就任
2014.9 首長選挙の間接選挙改正案が可決
2014.10 国民からの反発を受けて、ユドヨノ大統領が首長選挙の間接選挙改正を無効にする政令を発出
7代
12
2014.10.20 – 2019.10.20
作業内閣が発足
省庁改名と再編成、公共事業住宅省と環境林業省の新設
2015.2 執務拠点を西ジャワ州・ボゴールに移転
2015.8 内閣改造
2017 大衆組織に関する物議を醸す法案が可決→ヒズブ・ウット・タハリールのインドネシア支部が解散
2018.5 スラバヤ爆破事件
2019.4 首都をジャカルタからジャワ以外の場所に移すことを決定したことを発表
2019.8.25 新首都はカリマンタン島(ボルネオ島)北ペニャム パセル県とクタイ カルタネガラ県の間に置かれることが発表
13
2019.10.20 –
2024.10.20
インドネシア前進内閣
プラボウォ・スビアントを国防大臣に任命
2020.10 雇用創出法可決
2020.12.30 イスラム防衛戦線を解散
2021.11 COP26気候サミットで2030年までにインドネシアの森林破壊の停止と復元を宣言
8代
プラボウォ・スビアント
Prabowo Subianto Djojohadikoesoemo
14
2024.10.20 –
現職
2024.2.14 大統領選挙にて初期集計の段階で過半数を獲得する見通しとなる
3.20 選挙管理委員会により正式に当選が公表される
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