内名と外名について
日本については「日本の内名(endonym)と外名(exonym)」、日本から見た諸外国の内名と外名変更のお話は「諸外国における内名(endonym)と外名(exonym)」で解説した。ここでは「中国」にまつわる内名・外名を見てきたい。
まずおさらいから。
内名と外名とは、特定の地名・民族名・言語名などを、命名の主体となった民族・言語に内生した呼称と外来の言語における呼称とに区分するときに用いられる。
地名に関する限り、エンドニムは内生地名、エクソニムは外来地名と和訳されることもある。
区別 | 内名 | 外名 |
---|---|---|
用語 | エンドニム(英: endonym) | エクソニム(英: exonym) |
例 | 日本(にほん、にっぽん、Nippon) | 英: Japan(ジャパン)、仏: Japon(ジャポン) 伊: Giappone(ジャッポーネ) |
中国にまつわる内名と外名
中華人民共和国と中華民国(台湾)
ここで「中国」と呼称するのは、現在の「中華人民共和国」または「中華民国(台湾)」の内名を意図してのことだ。ただ、中国はこの2か国の国名のみを指すのではなく、東アジアの歴史の中で、この2か国がよって立つ地域や、歴史的空間を意味することも多い。
黄河文明の発祥地である黄河中下流域に広がる平原は「中原」と呼ばれ、しばしば「中国」と同一視されてきた。この地に発祥を持つ漢民族は、「優れた文化を持つ者」を意味する「中華」「華夏」の用語も「中国」と同様の自称として用いた。自国が世界の中心にあり、「中国」そのものであるという意識・考え方を中華思想と呼ぶ。
黄河中下流域から勢力を拡大した集団は、次第に周囲の多民族を吸収しつつ強大化し、長い年月を経て現在の漢民族を形成するに至った。その系譜を継ぐ「中华人民共和国(中華人民共和国)」は国号に「中華」の文字を取り入れ、憲法上、漢民族の他、55の少数民族からなる多民族国家として定義される。英語名称は「the People’s Republic of China (PRC)」である。
1945年に始まる第2次国共内戦の結果、1949年に台湾に国民党が撤退した後、台湾島を中心にした政治勢力は、辛亥革命の翌年の1912年に創立された「中華民國(中華民国)」の自称を続けるも国家としての立場が危ういものとなる。1972年に日本は田中首相の元、日中国交正常化を実現、「中華人民共和国」を国家承認した。アメリカも1972年にニクソン訪中で相互主権を認め、1979年に米中の国交正常化が正式に決定した。
「中華民国(台湾)」は、国内では内名として「中華」と表記することもある。公式の英語表記は「Republic of China(リパブリック・オブ・チャイナ)」である。
1971年に国際連合のアルバニア決議で中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認されて以降、「中華民国」(Republic of China)の表記の使用事例がなくなり、オリンピックなどのスポーツ大会や国際機関には、「Chinese Taipei(チャイニーズタイペイ、中華台北)」を用いている。
「本省人」と「外省人」の対立、国民党と民主進歩党の政治的立場の相違など、中国人か台湾人かのアイデンティティの問題と国号の問題は一筋縄ではない。2003年9月以後、中華民国旅券に正式名称「中華民国」と共に「TAIWAN」 を付記して発行している。
日本のマスコミ報道等では、「中華民国」単体で国家扱いすることはほぼなく、「中華民国(台湾)」という名称で国家扱いではなく地域扱いをしたり、「台湾」という呼称を用いることが多い。
香港、シンガポール、大韓民国、台湾のアジア四小龍の経済成長が著しく、1970年頃にそれら4つを指して「新興工業諸国(ニックス、NICS: Newly Industrialized Countries)」という表現が用いられた。しかし、その中の香港と台湾については、中華人民共和国に配慮して、正式な国家扱いしたマスコミ的表現を避ける傾向が強まって、やがて「新興工業経済地域(ニーズ、NIEs: Newly Industrialized Economies)」と呼び変えるようになった。
中華人民共和国
People’s Republic of China
- 国土面積は世界3位、人口は世界2位
- 1949年10月の建国以来中国共産党による事実上の一党独裁体制
- GDPは米国に次いで2位(当時世界第2位だった日本のGDPを中国が抜いたのは2010年)
●首都
北京
中華民国/台湾
Republic of China/Taiwan
- 国土面積は36,189.505km2(九州よりやや小さい)で世界134位、人口は2389万人で世界56位
- 民主共和制、直接選挙で選出される中華民国総統が国家元首、「立法」「司法」「行政」「考試」「監察」の五権分立制
- 名目国内総生産(GDP)は世界21位、購買力平価(PPP)で世界19位
●首都
台北(事実上)
中国の歴史的な外名の変遷
ユーラシア大陸の東側に位置する中国の地は、中央アジア・南アジアのみならず、西洋諸国とも太古から往来があり、様々な名前で呼ばれることとなる。
ヘレニズム文明の時代、ギリシア人は、インダス川の東の地をインディアと呼び、そのさらに東を「セリカ」と呼んだ。このセリカは、絹(絲)を意味する「セーリコン」(σηρικον)に由来する。すでにシルクロードによる東西貿易が盛んであったことの証左である。
これとは逆に、中国の歴代王朝名に由来する名称が西洋に広まっていくパターンもある。始皇帝で有名なあの「秦」から、インド経由でアラビア語などの中東の言語では「Sīn」となり、ヨーロッパでは、英語で「China(チャイナ)」、フランス語で「Chine(シーヌ)」となる。
これと同根で、日本でも、中華王朝・政権の名を越えた通史的な呼称として「支那」を用いていた。しかし、近代に入り、中国と戦火を交えて一時的に占領していた地域で、現地中国人に対する蔑称としての使用例が多発したことにより、中国側のこの呼び方に対する印象はすこぶる悪く、現代日本ではほぼ使われなくなっている。
当時の石原慎太郎都知事が「シナ」の語を用いてひと悶着あった。
7世紀末から8世紀初頭の突厥(第二突厥帝国)の人々が残した古テュルク文字の碑文において中国の人々を指して、「タブガチュ(タブガチ、Tabgach、Tabγač)」がある。これは、鮮卑の拓跋部(拓跋氏)に由来すると考えられる。当時、拓跋部は、北魏⇒西魏/東魏という王朝を建て、いわゆる北朝として中国の北半分を支配していた。
11世紀頃に中国の北辺を支配したキタイ(契丹)人の遼王朝から、12世紀から13世紀の、モンゴル高原のモンゴル人は、中国を「キタイ」と呼び、そこから内陸ユーラシアのテュルク語や東スラヴ語などもそれに準じた呼び名を用いた。ロシアやウクライナ、ブルガリア、カザフスタンでは現在も中国のことを「Китай (Kitaj)」 、ウズベキスタンでは「Xitoy」と呼んでいる。西ヨーロッパには「Cathay」として伝わり、キャセイパシフィック航空の社名などに使われている。
13世紀後半に、元朝統治下の中国をマルコ・ポーロは、北中国のことを「カタイ」という名で記録し、南中国のことを「マンジ(マンジュ)」という名で記録した。このマンジとは、「蛮子(Manji)」のことで、モンゴル人による元が国内統治のために、❶モンゴル人、❷色目人(西域出身者)、❸漢人(旧金朝治下の北宋遺民)、❹蛮子(南宋遺民)という諸民族の分割統治を実践する際の用語に基づく。
日本の教科書では「蛮子」をマイルドに「南人」と表記していたが、これは当時のモンゴル人が蔑称として「蛮子」を用いていたことに配慮した結果である。さらに、最近の教科書ではこの諸民族分割統治での呼称すら、取り上げられないことも多くなっている。
中国歴代王朝の内名と外名
ここからは中国史のお話となる。世界史では、中国の地に歴史上登場した国は、王朝として知られている。各王朝を識別するために、国号を冠するのだが、この国号(王朝名)とは、もちろん「秦」「漢」「唐」といった馴染みのあるものたちだ。
しかし、「漢」ひとつとっても、自称≒内名(その当事者の人たちの間でという意味)として採用された王朝は、かの有名な劉邦が興した「漢(前漢)」以外にも複数ある。そして、本人たちが採用した自称に拠らず、後世の歴史家が名付けた(当事者からすれば)外名もいくつか存在する。もっとも同じ言語内では、歴史家が名付けたものは内名扱いされるのが一般的ではあるが。
- 前漢(BC206 – AD8:秦の後、劉邦が建国)
- 後漢(25 – 220:新の王莽簒奪の後、劉秀/光武帝が建国)
- 蜀漢(蜀)(221 – 263:三国時代、劉備が建国)
- 前趙(漢趙国・劉趙・匈奴漢)(304 – 329:(匈奴の劉淵が建国)
- 成漢(成蜀・前蜀)(304 – 347:氐族の李特が実質的に建国)
- 後漢 (947 – 950:五代十国のひとつ、テュルク系突厥沙陀部の劉知遠が建国)
- 北漢(951 – 979:五代十国のひとつ、劉知遠の弟の劉崇が建国)
- 南漢(大越)(909 – 971:五代十国のひとつ、アラブ系とされる劉隠が建国)
- 漢(551 – 552:南朝梁から禅譲を受けた侯景が建国)
- 漢(784:唐の盧龍軍節度使であった朱泚が建国、はじめは秦と称する)
- 漢(1360 – 1363:元末の陳友諒が建国)
- 漢(1465 – 1466:明中期に第一次荊襄の乱で劉通が建国)
劉邦が興した「漢」が以降の「漢」を冠した王朝名の起源とされる。最初の建国だから、当然劉邦自身がわざわざ「前漢」と称するはずはなく、単なる「漢」と称し、この国号は漢中及び巴蜀に封じられた際の漢王の名に由来する。
その後、劉秀/光武帝が王莽に簒奪された漢王朝を復活させるが、これは後世では「後漢」と呼び習わす。もちろん、劉秀は「漢」の復興をなしただけだから国号の文字に「後」をつけるわけがない。後世の歴史家が両者を区別するために「前漢」「後漢」と呼び分けただけだ。
もっとも、中国では「前漢」「後漢」を「西漢」「東漢」と呼び分ける方が一般的だ。それは、それぞれの当初の都が置かれた都市「長安」「洛陽」の東西位置関係によるものだ。これは、 商(殷)の後から春秋戦国時代にかけて存在した「西周」「東周」と同じ用法による。
三国時代に、劉備が興した「蜀漢」も、漢王室の再興を目指したわけだから、自称の国号は単なる「漢」で、歴史上は「蜀」の一文字でも識別される。前漢・後漢(併せて両漢とも総称される)と区別するために興した地名に即してそう呼ばれた。
五胡十六国時代になると、事情はさらに複雑になる。劉淵は、その昔、劉邦が匈奴と兄弟の契りを交わしたことから(もちろんだからこそ劉姓なのだか)、建国当初は「漢」を名乗った。その後の劉曜の時代に「趙」に改称したが、同時代に羯族の石勒が同じ国号の「趙」を建国しているので、建国時期の時間差から劉淵の趙を「前趙」、石勒の趙を「後趙」と呼んで区別する。
「成漢」に至っては、李特の子である李雄が建国した際は、国号を「成(大成)」としたが、その後、李寿の代で「漢」に国号を変更したことによる複合技として扱いが一層雑になる。蜀の地にあった政権の連続性を重視して、これら2つの国号を合わせて「成漢」と呼び習わすことになった。
五代十国時代には3つの「漢」が成立する。五代王朝の4代目「後漢」は建国者の劉知遠が劉姓であるため、国号を「漢」とした。もちろん、先の時代の「漢」と区別するために「後漢」と呼ばれることになる。これは日本語(日本人)だけの用法になるが、劉秀/光武帝が興したのは「後漢」で、劉知遠が興したのは「後漢」と読み分けて区別する。もちろん、筆記テストではどちらも「後漢」のままでも正解となる。
「後漢」が後周に滅ぼされた後、その亡命政権が太原にて興される。これを「北漢」と呼び習わすが、もちろん、当事者たちは単なる「漢」を国号としている。「後漢」の都「開封」より「太原」が北方に位置することに由来する呼び名だ。
同時代、十国のひとつとして現在の広東省以南を支配していた「南漢」があった。建国当初は「大越」と称していたが、劉姓であることから、前漢を建てた漢王室の支族である彭城劉氏の子孫と自称して、918年に「漢」と国号を変更した。王朝存続後半に、中国北部に「後漢」「北漢」が相次いで成立したことから、地理的位置から「南漢」と呼称されるようることになる。
上記で説明した「漢」以外は短命であったり影響範囲が狭いため、特に呼称を区別することなく扱われるのが一般的である。
ここまで、「漢」だけでお腹が一杯になるような感じだが、同様の話は「秦」「趙」「魏」「涼」「斉」「唐」「楚」などにもある。
しかし、これら同一国号の王朝の識別をゆめゆめ疎かにできない出来事が過去の日本で起きた。
2020年度の大学入試センター試験、世界史Bの第1問 問5において、国号としての「魏」の認識が問題視された。
この問いは「(1)魏で、屯田制が実施された」を正解と選ばせる出題意図であったが、その後のプレスリリースで「三国時代の魏ではなく、戦国時代の魏と誤解し、(1)を誤答と考える生徒がいると考え、全受験者に得点を与える」と発表された。
歴史好きの筆者からすれば、問題文を読む限り、消去法で(1)という正答に辿り着くのはそう難しいことではないと思う。しかし、それ以上に、大学入試センターのプレスリリースがいただけない。
「魏」を国号に関した王朝は、「戦国魏」「三国魏(曹魏)」の他に、「春秋魏」、「魏(西魏:秦末に魏咎と魏豹が再興)」(208BC – 205BC)、五胡十六国時代の短期政権として「冉魏」(350–352)と「翟魏」(388–392)、南北朝時代に鮮卑族拓跋氏が建てた「北魏」(386 – 535)、「西魏」(535 – 556)、「東魏」(534 – 550)、隋末に李密が立てた短期政権の「魏」等がある。
私立文系大学の入試なら冉魏や翟魏までなら辛うじて出題範囲に入り得るかもだが、大学入試センターならば、学習指導要領上で、せめて「戦国魏」と「三国魏(曹魏)」の識別はつけておくべきだろう。おそらく彼らの意識では、「魏」と「北魏」「東魏」「西魏」らは呼称が違うためにセーフという認識らしいから。
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