701 | 8C:
古代英語詩『ベオウルフ』成立
西ゴート王ウィティザの独裁
ランゴバルド王アリペルト2世即位
(-712)
ローマ教皇ヨハンネス6世即位(-705)
| テルヴェル、ブルガール王となる
(-718)
| ca.北アフリカ総督ハッサーン、ベル
ベル人女予言者カーヒナ軍を破る
| ca.真臘が北部の陸真臘と、南部の水
真臘とに分離(8C初め)
ca.中央ジャワにマタラム王国興る
ジャワのシャイレーンドラ王家、大
乗仏教を信奉
ca.抒情詩人アマル『アマル・シャタ
カ』成る | | 則天武后の命により中宗の嫡男李重
潤(懿徳太子)・七女永泰公主らを
処刑
慈恩寺大雁塔改築
| | 大宝律令の撰定が完成 刑部皇子・
藤原不比等らに禄を賜う
この時期までに令制国が成立 |
702 | | | | | 北庭都護府、庭州に置かれる
| 初めて武挙(武官の登用試験、武科
挙)を定める
詩人陳子昂没
| | 第八次遣唐使が派遣され、執節使粟
田真人・少録山上憶良が則天武后に
謁見
この遣唐使は663年以来40年ぶりの
もので、「倭」に代わる国名「日
本」を承認させる目的もあった |
703 | | 東ローマ皇帝ユスティニアヌス2
世、ブルガリアへ逃亡
アラブ軍、アルメニア侵入 | ca.東方総督ハッジャージュ、イラク
にワーシト市を建設、忠実なシリア
軍が常駐 | | 南吐蕃乱れ、器弩悉弄出征の陣中に
死す 后妃、政を執る | 魏元忠と張説、武后の寵臣張易之・
張昌宗兄弟によって左遷される
則天武后により長安光宅寺七宝台仏
龕の仏像群が作られる(後に宝慶寺
(花塔寺)に移動) | | 持統太上天皇没、天皇経験者として
最初の火葬にされる |
704 | | | コタイバ=ビン=ムスリム、ホラー
サーン総督となり、中央アジア征
服に活躍(-715) | | | 張柬之、宰相となる 武后、病床に
臥す | | |
705 | ローマ教皇ヨハンネス7世即位(-707)
| テルヴェルが助けて、東ローマ皇帝
ユスティニアノス2世がティベリオ
ス3世を打倒し復位を果たす(-711)
レオンティス、殺害される
| ウマイヤ朝カリフのアブド=アルマ
リク没、ワリード1世、第6代カリフ
となる(-715)
| | 吐蕃 ティデ=ツグツェン即位(-755) | 張柬之・桓彦範ら、張易之・張昌
宗兄弟を殺す:武后の退位、復位し
た中宗により唐が再興される(神龍
革命)張柬之・桓彦範ら、5人が王
となる 則天武后没 弘文館を昭文館と
改称 詩文楊炯没
| | 親王・王臣に食封を加え、五位に位禄を
与える |
706 | | | ウマイヤ朝カリフのワリード1世に
よりダマスクスのヨハネ教会堂をウ
マイヤド・モスク(ウマイヤ家のモ
スク)に改築(-ca.714)
| | | 十道巡察使、20人(各道2人)・任
期2年となる 張柬之ら、韋后派の武
三思により左遷される 衛王重俊、皇
太子となる 武三思、五王中の存命
者を殺す 文人崔融没 北宗禅の祖神秀
没
昭文館が修文館と改称される | | 慶雲の改革 王公諸臣の山野独占を禁
止 田租を1町に稲15束とする |
707 | | | アラブ人、北アフリカのベルベル人
を征服:北アフリカ全土を支配 | | 唐の張仁愿、突厥を大破 | 武三思ら、皇太子を廃し安楽公主の
皇太女擁立を図る 唐の皇太子李重俊
(節愍太子)が中宗皇后韋氏に対し
反乱を起こし、武三思らを殺害後、
敗死 魏元忠、連座して左遷途上に没
詩人杜審言没
| | 文武天皇没、第43代元明天皇が即位
|
708 | ローマ教皇シシンニウス没後、コン
スタンティヌス1世即位(-715)
アヴランシュのオベールがモン・ト
ンブ山に礼拝堂を建てる(モン・サ
ン=ミシェル修道院の始まり)
| アンキアルスの戦:ビザンツのユ
スティニアノス2世、第一次ブルガ
リア帝国を討って敗北 | | | 唐の張仁愿、対突厥策として河北に
三受降城(東中西の3城)を築く
西突厥のトゥルギシュ(突騎施)の
婆葛可汗、安西4鎮に侵入 | 修文館、大学士4、直学士8、学士
12人を置く
韋后・諸公主ら、金銭納入者に勝手
に降勅授官を行う:斜封官の始まり | | 武蔵国から銅を献上
銀銭の和同開珎を鋳造
銅銭の和同開珎を鋳造
|
709 | フランク 中ピピン、アラマン族を
討伐・征服(-712)
アラブ軍、初めてイベリア半島に渡
る | | ウマイヤ朝カリフのワリード1世に
よりエルサレムのアル=アクサー・
モスク(銀のモスク)が完成する
(705 -)
| | | 長安の小雁塔が建てられる(707-)
| | |
710 | 西ゴート最後の王ロドリコ即位
(-711)
ビザンツ軍、ラヴェンナ攻略
ウェセックス王イネ、ブリトン人
ノドゥムノニア王国の軍を撃破
アラブの将ターリク、イベリア半島
に上陸 | コンスタンティノープル、ブルガー
ル族に攻撃される
ca.ブルガリアのマダラの騎士像が作
られる
| ca.風刺・頒詩人アフタル没 | | 涼州に最初の節度使である河西節度
使が設置
吐蕃王ティデ・ツグツェンが王妃と
して唐の金城公主を迎え入れる | 韋后・安楽公主ら、中宗を毒殺し
温王李重茂(中宗第4子、殤帝)を
擁立 臨湽王李隆基(相王の子、のち
玄宗)・太平公主ら、韋后・安楽公
主らを殺す 睿宗(相王)復位し、
隆基を皇太子とする 張柬之・桓彦範
らの官爵を追復 斜封官廃止 薛訥、幽
州鎮守経略節度大使となる | | 元明天皇が平城京へ遷都
(奈良時代の始まり)
銀銭を禁止 |
711 | フランク王ダゴベルト3世即位(-715)
グアダレーテ河畔の戦(ヘレス=デ
=ラ=フロンテラの戦):
ウマイヤ朝ターリクが西ゴート王ロ
ドリクを敗死させ、西ゴート王国を
滅ぼしイベリア半島を占領
| 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世
が反乱により殺害され、ヘラクレイ
オス朝が断絶、フィリッピコス即位
(-713)
| | ウマイヤ朝のムハンマド=ビン=カー
シムがシンド地方(現パキスタン)
を征服、シンド王ターヒル敗死 | | 唐 十道に按察使(巡察使改め)を
派遣
青龍寺建立
| | 蓄銭叙位令を制定 |
712 | ランゴバルド王リウトプラント即位
(-744):中南部イタリアに進出し
て、王国の全盛期を現出
ウマイヤ朝ターリク、セビーリャを
占領 | | ウマイヤ朝のホラーサーン総督クタ
イバ=イブン=ムスリムがサマルカン
ドを占領し、マー・ワラー・アン
ナフル全域の征服完了
| | | 唐 睿宗、皇太子の李隆基に譲位、玄
宗即位 睿宗を太上皇、王氏を皇后と
する
唐は最盛期を迎える(開元の治)
慧能没(律・禅宗)、賢首(法蔵)没
(華厳宗)、詩人宋之問没 | | 太安万侶(安万侶)が『古事記』を撰上 |
713 | セゴイエラの戦:アラブ軍、イベリ
ア半島の大部分を制圧 更にピレネー
山脈を越えてナルボンヌを占領 | ビザンツ 皇帝フィリッピコス暗殺、
重臣のアナスタシオス2世即位(-715)
| | | | 唐 太平公主、玄宗廃位を謀り殺さ
れる(先天の変)
諸道按察使廃止
姚元之(崇)、宰相となる 開元と
改元 張説、姚崇と対立し左遷され
る
四川の楽山大仏の建設が始まる
(-803)
詩人沈佺期没 詩人李嶠没 | 新羅 開城に築城
唐の玄宗が大祚栄を渤海郡王に封じる
震国が国号を渤海と改称
| 丹後・美作・大隅の3国を置く
諸国に『風土記』の編纂を命ずる |
714 | フランク宮宰中ピピン没
「ドイツ人の使徒」と呼ばれるイ
ングランドの修道士ボニファティウ
ス(ウィンフリド)、第1回ドイツ
伝道
ウマイヤ軍、イベリア半島のサラゴ
サを攻略 | | ウマイヤ朝 東方総督ハッジャージュ没 | | 唐の薛訥、契丹に大敗
薛訥、吐蕃を大破 | 唐 長安に楽舞用の左右教坊(外教
坊)設置全国の僧尼の偽妄還俗の者
1万2000余人を数える 十道按察使
復活員外官・試官・検校官を廃止
奢侈を取り締るため、珠玉・錦繍を
焼く 次子の郢王嗣謙、皇太子となる
唐で最初の市舶司が広州に設置 | | 『続日本紀』に奄美・信覚・球美な
どの人々が来朝したとされる |
715 | フランク ヒルペリヒ2世即位(-720)
中ピピンの子カール=マルテル、ア
ウストラシアの宮宰となる(-741)
ローマ教皇グレゴリウス2世即位
(-731)
| ビザンツ アナスタシオス2世退位 そ
の将軍テオドシウス3世が即位(-717)
| ウマイヤ朝 ホラーサーン総督クタイ
バ=イブン=ムスリム、フェルガナを
征し、カシュガル地方に侵攻
スライマーン・イブン・アブドゥル
マリク、ウマイヤ朝第7代カリフと
なる(-717) | | 唐の薛訥、突厥を討つ | 唐 侍読、置かれる
僧義浄没『南海寄帰内法伝』
| | 浮浪人に逃亡地で調・庸を課徴 元明
天皇が譲位し、第44代元正天皇が即
位 里を郷と改称
郷を2~3里に分ける
越前国氣比神宮に託宣により神宮寺
が設けられる(日本最初の神仏習合
に伴う神宮寺の記録) |
716 | マーシア王エゼルバルド即位
(-757):ノーサンブリアを除く全イ
ングランドに宗主権確立、強勢を誇
る
スコットランドのアイオナ修道院、
カトリック下に入る
アラブ、リスボンを占領 | ウマイヤの将マスラマ、コンスタン
ティノープルを包囲攻撃(-717) | | | カパガン(黙啜)可汗、鉄勒のバイ
ルク(抜曳固)部に殺され、ビルゲ
(■伽)(■は田に比)が立つ トン
ユクク(暾欲谷)を重用、ビルゲの
弟キュル=ティギン(闕特勤)、左
賢王としてビルゲに協力 | 唐 太上皇(睿宗)没 姚崇辞め、宋
璟・蘇頲、宰相となる 十道按察使、
再び廃止
インドの無畏三蔵(善無畏)、長安
に来る
| | 東国の高句麗人を武蔵国に移し、高
麗郡を置く |
717 | ヴァンシーの戦:カール=マルテ
ル、ネウストリアの宮宰ラゲンフリ
ートを破り、ネウストリアを支配
アウストラシア王クロタール4世即
位(-719) | テマ・アナトリコン長官であったレ
オーン3世が東ローマ皇帝に即位
(-741)、イサウリア朝(-867)を開く
アラブ海軍、コンスタンティノープ
ルを攻撃、レオーン3世、再度「ギ
リシア火』で撃退(-718) | ウマル2世、ウマイヤ朝第8代カリ
フとなる(-720)、税制改革に着手 | | | 唐 明堂を乾元殿とし旧に復す 中書・
門下省や侍中など官名を旧に復す | 新羅 医博士・算博士を置く | 遣唐使派遣:遣唐押使多治比県守
吉備真備・僧玄昉・安倍仲麻呂ら
留学
僧行基らの活動を禁止
|
718 | アンダルシア総督サフム、ナルボン
ヌを攻略
西ゴート人ペラーヨ、アラブ軍を破
り、アストゥリアス王国を建設:国
土回復運動の初め
| | ca.詩人ウマル=ビン=アビー=
ラビーア没 | | | 唐 悪銭を禁じ良銭流布を図る 州県官
の俸給に百姓の常賦(平常徴収の
税)外の加賦が充てられる
画家李思訓没
| 渤海王大祚栄没、子の大武芸立つ
(-737)
新羅 漏刻博士を置く | 能登・安房・石城・石背の4国を置く
養老律令、編集される |
719 | アラブ軍、アキテーヌ地方に侵入
ボニファティウス、本格的なドイ
ツ布教を開始(-754) | | | | | | | |
720 | フランク テウデリヒ4世即位(-737)
アラブ人、西南ガリアに侵入 | | | | 突厥、甘州・涼州などに侵寇 | 唐 宋璟・蘇頲辞め、源乾曜・張嘉
貞が宰相となる 十道按察使、復活さ
れる
インドの金剛智、セイロンの不空三
蔵と共に長安に来たる
趙縣安済橋建設
| | 『日本書紀』完成
舎人親王が『日本紀』30卷・系図1
卷を撰上
大隅国国司陽侯麻呂が殺害され、隼
人の反乱が起る(-721)
ca.柿本人麻呂没
|
721 | アラブ人、シチリア・サルディーニ
ャを攻撃
トゥールーズの戦:アキテーヌ公
ウード、アラブ軍を撃破
イングランドの修道士ボニファティ
ウス、教皇グレゴリウス2世からド
イツ司教に叙任される
ペラーヨ、アラブ人からガリキア・
レオンを奪回 | | ヤジード2世、ウマイヤ朝第9代カ
リフとなる(-724) | | 朔方節度使を置く | 唐 宇文融、括戸政策(戸籍に入って
いない戸を調査把握して戸籍に編入
し、田の耕作による生活安定と租税
確保を目指す政策)を建議 姚崇没
張説、宰相となる 劉知幾(子玄)没
『史通』 | 新羅 北辺に長城を築く | |
722 | コバドンガの戦:ペラーヨがイスラ
ム勢力からアストゥリアスを奪回
(最初のレコンキスタ)
| | | 唐の楊思勗、ヴェトナムに出兵 | | 唐 張説の建議で壮士を募集して彍騎
(都で皇帝の護衛や首都の防衛に当
る兵)に充てる:兵農分離の募兵制
の初め(725完成) | 新羅 百姓に丁田(成年男子に与え
る田)を給す:丁田制
ca.新羅人僧慧超がインドに渡る
(-727)
| 良田百万町歩開墾を計画 |
723 | セビーリャ司教ヨハンネス、聖書を
アラブ語に翻訳 | | ウマイヤ朝ヤズィード2世がキリス
ト教徒の聖画像を禁止 | | | 唐 麗正書院を置き文学の士を集める
宇文融、覆田使として括戸政策に当
る 蘇頲没 | | 田地開墾のため三世一身法を施行
太安万侶が死去
現奈良市此瀬町の「太安万侶墓」に
墓誌が残る |
724 | ピルミニウスによりボーデン湖(コ
ンスタンツ湖)の島にライヒェナウ
修道院が創設
| | ウマイヤ朝のヒシャーム=イブン=ア
ブドゥルマリクが第10代カリフとな
る(-743)
ウマイヤ朝最後の安定期をもたら
し、モザイク床遺跡で知られるヒシ
ャーム宮殿を建設 | ca.カシミールのムクターピーダ=ラ
リターディティヤ王、カールコータ
朝盛時を形成 | | 唐 諸道按察使、廃止される
王皇后廃され庶民となり没 | | 元正天皇が譲位し、第45代聖武天皇
(首皇子)が即位
陸奥国に多賀城を設置
|
725 | フランク カール=マルテル、バイエ
ルンへ遠征
アラブ軍、カルカッソンヌを占領、
オータンを略奪 | | | ca.西ガンガ朝のシュリープルシャ即
位(-788):パッラヴァ朝とパーンデ
ィヤ朝の間にあって勢力を維持
| | 唐 宇文融、客戸税銭を常平倉に充て
る また勧農社を設置 彍騎の制完成
(12衛12万人で編成し、6番制とす
る):府兵制崩壊
玄宗、泰山で封禅の儀を行う | | |
726 | | 東ローマ皇帝レオーン3世が聖像禁
止令を公布(イコノクラスム(聖像
破壊運動/聖像崇拝論争)の始まり)
| | | | 唐 李元紘、宰相となる 張説、宇文
融・源乾曜・李林甫らに収賄の罪で
弾劾される | 国水靺鞨、唐に通じる
| |
727 | マーシア王エゼルバルド、ブリタニ
アの盟主となる
| イタリア・ギリシアなどで聖像禁止
令に対する反乱起る | | | 唐の王君毚、吐蕃を青海西方で大破
王君毚、回紇の護輸に殺される
吐蕃、交州を攻略 トカラの使者来た
りアラブの圧政を訴える | 唐 玄宗、朋党の争いを嫌い、張説
(科挙派)を解職 宇文融(門閥派)
を左遷 文人蘇頲没 僧・天文学者
の一行没
| 渤海国王大武芸が高仁義らを日本に
派遣(第一回渤海使)翌年には日本
から遣渤海使が送られる | |
728 | フランク カール=マルテル、バイエ
ルンを征服
ローマ教皇グレゴリウス2世とラン
ゴバルド王リウトプランドの領土寄
進に関する合意がなされる(スート
リの寄進) | | 思想家ハサン=アルバスリー没 | ca.パッラヴァ朝ナラシンハヴァ
ルマン2世没(即位: ca.700-) | | 唐の彍騎改められ、左右羽林軍飛
騎となる 張説の進言により大衍暦
(僧一行の作)頒行される | | 金光明経を諸国に頒布 |
729 | | | | | | 唐 十道と京・都両畿按察使、復活さ
れる 宇文融、宰相となるも左遷後、
没 銅・鉛・錫などの私売を禁止 | | 長屋王の変:長屋王、謀反の疑いで
糾問され自殺
藤原光明子(光明皇后)が立后され
る(皇族以外の最初の立后) |
730 | フランク カール=マルテル、アラマ
ニエンを併合
アラブ軍、アヴィニヨンを占領 | 東ローマ皇帝レオーン3世がイコン
擁護派のコンスタンティノポリス総
主教ゲルマノス1世を罷免、支配下
の教会財産を没収
ローマ教皇グレゴ
リウス2世、レオーン3世を破門 | | パーンディヤ朝マーラヴァルマン=
ラージャシンハ1世即位(-765)
ca.ナーガパタ(-756)、ウッジャイン
でプラティーハーラ朝(-1036)を
興す
| | 唐 京官の職田復給 裴光庭の建議によ
り官吏の昇進に循資格制(年功序列
的方法)が用いられる 張説没 この
頃から玄宗、宦官高力士らを寵任:
宦官の勢い振う 張説没 | | 筑紫国大宰府にて大宰帥大伴旅人ら
により「梅花の宴」が催される
皇后官職に施薬院を置く |
731 | アラブ軍、中部ガリアに進出
ローマ教皇グレゴリウス2世没、グ
レゴリウス3世即位(-741)
ca.ベーダ・ヴェネラビリスが『イン
グランド教会史』を書き上げる
ca.『メルゼブルクの呪文』成る
古典期マヤのカラクムル遺跡から出
土の石碑51はこの年のユクノーム・
トーク・カウィール王のもの
| | | カナウジのヤショーヴァルマン、唐
に遣使
ca.パッラヴァ朝ナンディヴァルマン
2世即位(-796) | 突厥のキュル=ティギン(闕特勤)
没 | | | 大伴旅人没
|
732 | トゥール・ポワティエ間の戦:カー
ル=マルテル率いるフランク王国軍
がアブドゥル=ラフマーン率いるウ
マイヤ朝軍を撃破、アラブ人のガ
リア侵入阻止(733とも)この戦いと、
718年の東ローマ帝国の勝利によ
り、キリスト教世界はイスラム帝国
の進撃を止めることに成功
| 東ローマ皇帝レオーン3世がイリュ
リクムの裁治権をローマ教皇からコ
ンスタンティノポリス総主教に移管
東ローマ皇帝レオーン3世の息子
(後の皇帝コンスタンティノス5
世)がハザール王女チチャク(エイ
レーネー)と結婚 | 風刺・頒詩人ファラズダク没 | ca.中部ジャワでヒンドゥー教徒のサ
ンジャ王統治:マタラム王国
| オルホン川流域のホショ・ツァイダ
ムに東突厥のキュル・テギンの碑文
が建てられる | 唐 開元礼成る | 渤海、登州を攻撃(-733)
新羅、唐の要請で渤海に出兵 | 東海・東山・山陰・西海道に節度使を
任命 |
733 | | レオーン3世、南イタリアの教皇裁
判管轄権を奪う:教皇勢力弱体化 | | | | 唐 裴光庭没 韓林、宰相となる 張
九齢、宰相となる
宋璟、辞職し東郡(洛陽)に帰る
全国が15道に分けられ、各道に
采訪使を置く | | 遣唐使派遣:多治比広成を大使に任命 |
734 | ボーン川の戦:カール=マルテルが
フリースラント王国を完全に征服
アラブ人、一時アヴィニヨンを占領 | | ホラーサーンでハーリス率いるハワ
リージュ派が反乱を起す(-737) | 日本の遣唐使船、崑崙国に漂着(平
群広成) | 唐、吐蕃と和して赤嶺に大碑を建て
る 突厥のビルゲ(■伽)(■は田
に比)可汗、毒殺
される | 唐 李林甫、宰相となる 張九齢、中書
令となる 裴耀卿らの漕運路改革 | 幽州節度使張守珪、契丹を大破、
契丹王を斬る | 遣唐使留学生井真成36歳で長安で没
する
その2005年4月に発見された墓誌に
は、玄宗皇帝から官位授与や「国号
日本」も記録されている 「日本」表
記の現存資料としては最古 |
735 | カール=マルテル、ブルグントを
征服
ヨークに大司教座を置く(初代大司
教エグベルト)
アングロ=サクソンの神学者ベーダ
没 | | | | オルホン川流域のホショ・ツァイダ
ムに東突厥のビルゲ・カガンの碑文
が建てられる
| 唐 楊玄琰の娘、玄宗の子寿王瑁の妃
となる(後の楊貴妃) 密教を伝えた
善無畏没 道士司馬承禎没『坐忘論』
『天隠子』
| 唐、新羅の■江(■は氵に貝)
(大同江)以南の領有を認める | 入唐留学生吉備真備・入唐僧玄昉
ら、大使多治比広成に従って帰国 |
736 | | | | | 唐 安禄山、奚・契丹に敗北、斬刑
を免れる
吐蕃のギルギット(小勃律)国攻撃
を機に、唐は盟約を破って吐蕃を攻
める
| 唐 張九齢、中書令を罷免され、李
林甫が中書令となる | | インド僧菩提僊那・林邑僧仏哲・唐僧道
璿、来日 |
737 | フランク王テウデリヒ4世没:カー
ル=マルテル、後継王を立てず、自
ら王国の事実上の支配者となる
カール=マルテル、南ガリアのア
ラブ人をナルボンヌ付近で撃破 | ドン川下流にアラブ人現る | | | 唐が吐蕃を青海の西で破る | 唐 初めて玄学博士を置く 崇玄学を玄
元皇帝(老子の尊号)廟に、道学を
諸州に置き、道挙(道士の官吏任用
法)を行うこととする(741とも) 科挙
の明経を定める 張九齢、左遷される
皇太子瑛ら、殺される 新しい律令格
式(開元律令格式)頒行される 宋璟没
武恵妃没 | 渤海王大武芸没、子の大欽茂立つ
(-794):渤海、盛時となる | 私出挙を禁止 天平の疫病大流行(天
然痘)により藤原四兄弟:房前・麻
呂・武智麻呂・宇合が相次いで死去
右大臣橘諸兄による政権が成立する
|
738 | アラブ軍、フランスのワーヌ渓谷で
カール=マルテルに再敗
キリグア王カック・ティリウが反
乱を起こし、コパン王を斬首してマ
ヤ地域の覇権を握る
| | | | トゥルギシュ(突騎施)の蘇禄可汗
殺され、分裂抗争起る | 唐 忠王與(亨)、皇太子となる 唐が
皮羅閣に帰義の名を与え、雲南王に
冊封し南詔が建国
『唐六典』成る
唐の玄宗が翰林学士院を設置
石壁山玄中寺の鉄仏成る | | |
739 | ランゴバルド王リウトプラント、ロ
ーマ市を包囲、教皇グレゴリウス3
世、カール=マルテルに救援 カール
=マルテル、リウトプラントとの同
盟を重んじ、提携失敗
| | | | 唐がトゥルギシュを破り、吐火仙を
賀羅嶺で捕える | 唐 孔子、文宣王と追諡される | 渤海 第2回目の使節を日本に送る
(-919) | 行信により夢殿を中心とする法隆寺東院
が建立
|
740 | | | アクロイノンの戦:東ローマ帝国
レオーン3世がウマイヤ朝に勝利
し、小アジアの確保に成功
クーファのシーア派(ザイド派)の
ザイド・ブン・アリーがカリフを宣
言して蜂起、敗死:ザイド・ブ
ン・アリーの乱 | ca.チャールキヤ朝ヴィクラマーディ
ティヤ2世、パッラヴァ朝の首都カ
ーンチーに侵入
ca.カシミールのラリターディティ
ヤ、カナウジのヤショーヴァルマン
を破る | 吐蕃に嫁した金城公主没 ハザールの
カガン、ブラン・カガン没(テュル
ク系遊牧国家ながらユダヤ教に改
宗) | 唐 張九齢没 詩人孟浩然没
| | 藤原広嗣の乱:大宰少弐藤原広嗣、
大宰府で反乱、誅殺される
山背恭仁京に遷都 聖武天皇の東国
行幸(彷徨五年の始まり - 745)
|
741 | フランク カール=マルテル没、長子
カルロマンと次子ピピン、宮宰とし
て王国の支配権を二分
ローマ教皇グレゴリウス3世没、ザ
カリアス即位(-752)
| ビザンツ レオーン3世没、子のコン
スタンティノス5世即位(-775) 聖像
禁止令を強化し、内乱起る
アルタヴァストスの暴動
東ローマ皇帝レオーン3世により
「ローマ法大全」を改訂した「エク
ロゲー(ギリシア語法選集)」が出
される(726とも) | | | 唐が北庭・安西を分け、2節度とす
る
吐蕃、唐に侵寇し達化県・石堡城を
攻略 | 唐 諸州県での飢饉救済の策を改め、
迅速化を図る 玄元皇帝像を興慶宮に
置く 画像を各州の開元観に置く 密教
を伝えた金剛智没 | | 聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔
|
742 | フランク 小ピピン、名目的な王と
してヒルデリヒ3世(ヒルペリヒ2
世の子)を即位させる(743とも,
-751)
フランクフルト国民宗教会議 | ビザンツ コンスタンティノス5世、
内乱を鎮圧 | ハディース(伝承)史家ズフリー没 | ca.デカンのダンティドゥルガ、チャ
ールキヤ朝の知行を受ける | 突騎施の莫賀達干が十姓可汗(阿史
那昕)を殺害し西突厥を滅ぼす | 唐 安禄山、平盧節度使となる
韋堅、陝郡太守領江淮租庸転運使と
なる 中国最古のモスクである長安大
清真寺が建てられる
詩人王之渙没 | | 近江に紫香楽宮を造営
|
743 | アラブ人、リヨンを略奪 | | ヒシャーム没 ワリード2世、ウマイ
ヤ朝第11代カリフとなる
| | | 唐 韋堅、広運潭を開き、江南の産物
を長安に運ぶ 崇玄学、崇玄館に改め
られる | | 墾田永年私財法を施行
紫香楽で廬舎那大仏造立を発願 |
744 | ソワソンの公会議
ザクセン人への宣教のためフルダ修
道院が設立
| | ワリード1世の子、ワリード2世
を敗死させ、ウマイヤ朝第12代カリ
フのヤジード3世となる ヤジード3
世急死し、イブラーヒームが第13代
カリフとなる 上イラクのハッラーン
総督マルワーン、イブラーヒームを
破り、第14代カリフのマルワーン2
世となる(-750)、ダマスクスからハ
ッラーンに遷都
| | 回鶻(ウイグル)興る:フトルク=
ボイラ(骨力裴羅)、自立してフ
トルク=ビルゲ=キュル=カガン
(骨咄禄■伽闕可汗)(■は田に
比)と称し、唐が懐仁可汗に封じる
西域における唐の勢力、再び確立 | 唐 安禄山、范陽節度使を兼ねる 楊太
真(後の楊貴妃)、宮中に召される | | |
745 | フランク カルロマン、ザクセン討伐
小ピピン、南ドイツを討伐し、シュ
ヴァーベン地方を併合
ケルン大司教座設立
ca.ボニファティウスによりフランク
の教会統一され、またドイツへ恩布
教進む | ビザンツ コンスタンティノス5世、
シリアのアラブ軍を攻撃(-751) | | | ウイグルの懐仁可汗が白眉可汗(鶻
隴匐)を殺害し東突厥を滅ぼす 懐仁
可汗没 | 唐の玄宗が楊太真を貴妃とする(楊貴妃)
安禄山、契丹を討つ
大秦国(東ローマ帝国)からネスト
リウス派聖職者の佶和(ゲワルギ
ス)が長安に来訪し玄宗に謁見する | | 僧行基を大僧正に任命 平城京へ遷都
金鐘寺に大仏造立工事を移す 僧玄
昉、筑紫に左遷される |
746 | フランク カンスタットの血の法廷
(カンスタットの血統評議会) | ビザンツ、キプロス島回復 | | | | 唐 韋堅、反対派の李林甫により左遷
される 李適之、宰相を辞めて太子少
保となり、陳希烈、宰相となる
ca. 文筆家李瀚没『蒙求』 | | 筑紫観世音寺を建立
|
747 | フランク カルロマン引退 小ピピン、
全王国の宮宰となる
マインツ大司教座設立 | ビザンツ 悪疫がはびこる | アッバース家の宣伝員(ダーイー)
アブー=ムスリム、アッバース家
を奉じてホラーサーン地方のメルブ
で蜂起し、同地のシリア軍を破る | 前期チャールキヤ朝 キールティヴァ
ルマン2世即位(-ca.753) | 唐の高仙芝、吐蕃を破りギルギット
(小勃律)王らを捕える | 唐 韋堅ら、殺される 張彦遠『歴
代名画記』 書家李邕没
| | 東大寺大仏の鋳造始まる |
748 | | ビザンツ 帝国軍、キプロスで
アラブ艦隊を撃滅 | ムータジラ学派の始祖ワーシル=ビ
ン=アター没 ダマスクスのヨハネス
没 | | | 唐 高力士、驃騎将軍となる
南詔王皮羅閣(雲南王蒙帰義)没、
閣羅鳳即位(-779) | | 鑑真が日本への渡海の途上で暴風雨
に巻き込まれ、海南島に流される
(-751) |
749 | ランゴバルド、再度ローマを攻撃 | キリスト教神学者ダマスコの
イオアン没『神学の泉』 | アブー・アル=アッバース、がイラ
クのクーファでカリフとなり、サッ
ファーフと自称(-754)、アッバー
ス朝を建てる
アラブ軍、メルブを攻略
| | | 唐 折衝府の上下魚書、廃される 府兵
関係官のみの存在となり、府兵制は
実質的機能を停止 『貞観政要』の編
著者で歴史家の呉兢没 | 新羅 天文博士を置く | 陸奥国司百済王敬福が朝廷に黄金を
献上(日本での産金の最古の記録)
東大寺大仏造営にあたり宇佐八幡宮
より八幡神が勧請され手向山八幡宮
が創建される
東大寺大仏の鋳造終る
聖武天皇が譲位し、第46代孝謙天皇
即位する
光明皇太后の家政機関として
紫微中台が設置される |
750 | ca.『ゲラシウスの典礼書』がフラン
ク王国で作られる
ca.スウェーデンのゴットランド島の
「アードレの画像石(ルーン碑)」
が建立される
| | ザーブ河畔の戦:アッバース朝がウ
マイヤ朝残党に勝利、マルワーン2
世、上エジプトで殺され、ウマイヤ
朝滅ぶ アッバース朝が正式に成立す
る(-1258)
アッバース朝初代宰相(ワズィー
ル)アブー・サラマが暗殺され、以
後シーア派の粛清が続く | ca.ゴーパーラ(-770)、ベンガル
地方にパーラ朝を興す
| 南シベリアのテレホリ湖の島にウイ
グル人の王宮であるポル=バジンが
作られる
| 唐 安禄山、東平郡王となる 楊釗、楊
国忠の名を受ける 南詔王、雲南都護
府を攻略 書家張旭没 画家呉道玄没
ca.画家韓幹没 | | |
751 | 8C後半:
マーシア王オッファ、通貨制度を改
革、統一的銀貨を発行
フランク王国でソワソン会議により
メロヴィング朝のヒルデリク3世が
廃位(メロヴィング朝終わる)、カ
ール=マルテルの子ピピン3世(小
ピピン)が国王に選出され、カロリ
ング朝が創始(-987)
ランゴバルド王アイストゥルフが東
ローマ帝国のラヴェンナ総督府を占
領
ローマとラヴェンナを結ぶ「ビザン
ティン回廊(Byzantine Corridor:
フラミニア街道)」の終焉 | ビザンツ アルメニア進軍 | | 8C半:
ジャワにシャイレーンドラ王国興る
(大乗仏教を信奉)
哲学者シャンカラ、不二一元論を
主張
ヴァークパティ=ラージャのプラー
クリット語叙事詩『ガウダヴァハ
(ガラダ王子の殺戮)』、劇作家
バヴァブーティの戯曲『ウッタラ・
ラーマ・チャリタ(ラーマ王後日物
語)』『マーラティー=マーダヴ
ァ』成る
8C後半:
シュリーヴィジャヤ、マライを征服
シャイレーンドラ家、ボロブドゥー
ルを造営
エローラのカイラーサナータ寺院成
る
唐僧悟空、インドに入る | 8C半:
ca.パドマサンバヴァ(蓮華生)、テ
ィソン=デツェンの招きで吐蕃に入
る
唐の安西4鎮節度使高仙芝が中央ア
ジアに遠征し、タラス河畔でジヤー
ド・イブン・サーリフ率いるアッバ
ース朝に敗れる(タラス河畔の戦
い):中国の製紙法西伝、杜環捕わ
れ、帰国後『経行記』成る
| 唐 安禄山、河東節度使を兼ねる 安禄
山、南詔に大敗 安禄山、契丹に大敗 | 新羅の宰相金大城が都の慶州に石窟
庵と仏国寺を建立
| 『懐風藻』成る |
752 | フランク 小ピピン、ピレネーを越
えてアラブ人を攻撃、カタロニア地
方の一部を奪う
ウェセックス王カスレッド、マーシ
ア王エゼルバルドを破る
ローマ教皇ザカリアス没、新教皇ス
テファヌス2世、3日後に没 別人のス
テファヌス2世(3世)即位(-757)
ビザンツ皇帝との間に聖像論争続く | | | | | 唐 李林甫没 楊国忠、右相となる
南詔王閣羅鳳、吐蕃王の義弟となる | | 遣唐使派遣:遣唐大使藤原清河・副
使大伴古麻呂ら 天竺僧菩提僊那を
導師として東大寺大仏の開眼供養が
行われる
東大寺二月堂が創建され、実忠によ
り最初の修二会(十一面悔過、お
水取り)が行われる
|
753 | | | | ca.ダンティドゥルガ、前期チャール
キヤ朝を滅ぼしラーシュトラクータ
朝を興す
| 唐の隴右節度使哥舒翰、吐蕃を攻
め、河西九曲を奪回 | 唐 李林甫、官爵を追奪される | | 唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅
の使者と席次を争う
唐僧の鑑真が阿児奈波嶋(現在の沖
縄本島)を経て日本に着く
阿倍仲麻呂・藤原清河は難破して安
南に漂着し日本に帰れず
|
754 | 教皇ステファヌス2世がフランク王
ピピン3世(小ピピン)に塗油:ポ
ンティオンの会見
小ピピン、イタリア遠征、ランゴバ
ルド王アイストゥルフと戦う
宣教師ボニファティウス(ドイツ人
の使徒)がフリースラントのドック
ムで異教徒により殉教
イスラム支配下のスペインで『754
年のモサラベ年代記』が執筆 | ヒエレイア教会会議で聖像破壊論者
が聖像崇敬を断罪する | サッファーフ没し、マンスールが
アッバース朝カリフとなる(-775)
マンスール、叔父のアブド=アッ
ラーフを破り捕える
ca.フッラム派、ホラーサーンで活動 | | 吐蕃でティソン=デツェン(黎蘇籠
猟賛)即位(-797)
| 唐 李宓、南詔に大敗し没 | 新羅 華厳寺舎利塔成る
皇龍寺鐘を鋳造 | 唐僧鑑真来日:戒律を伝える
鑑真、東大寺戒壇で授戒
|
755 | | ビザンツ コンスタンティノス5世、
ブルガール人と戦う(-764) | アッバース朝建国の功臣アブー・ム
スリムがカリフ・マンスールに処刑
される | | | 唐で安史の乱が起こる(-763):安禄
山、楊国忠打倒を名目として范陽で
挙兵 平原太守顔真卿、安禄山征討の
義兵をあげる 安禄山、東京洛陽を占
領
高仙芝、斬処される 詩人王昌齢没
| 渤海国王大欽茂が中京顕徳府から上
京龍泉府に遷都 | 東大寺戒壇院建立 |
756 | フランク王ピピン3世(小ピピン)、
ローマ市を攻撃された教皇ステフ
ァヌス2世(3世)の救援に応じ、
再びランゴバルドを討伐、これを従
属させ、奪われた教会領(ラヴェン
ナとペンタポリス)を教皇に返還さ
せる:ピピンの寄進(ローマ教皇領
の始まり)
ウマイヤ朝の王族アブド・アッラフ
マーン1世がムサラの戦いで勝利
し、コルドバでアミールを名乗る
これにより後ウマイヤ朝がイベリア
半島で独立(-1031)し、イスラム帝
国は分裂する
| ビザンツ軍、ブルガール人
と戦う(-759) | シーア過激派シンバス処刑 | ラーシュトラクータ朝のクリシュナ
1世即位(-772)
ca.コンカン地方ムンバイ近郊
ガーラープリー島エレファンタ石窟
群もこの時代までに整備される
| | 安禄山が洛陽で大燕皇帝を自称 唐の
玄宗が長安から四川へ出奔 馬嵬にて
楊国忠・楊貴妃を処刑 玄宗に代わり
粛宗が霊武にて即位(-762)
玄宗を上皇とする
ca.画家張萱没『虢国夫人遊春図』
『搗練図』 | | 聖武太上天皇没、聖武太上天皇の七
七忌に当たり、東大寺に遺品を施入
したのが正倉院の始まり
筑前怡土城起工 |
757 | ランゴバルド最後の王デシデリウス
即位(-774)
マーシア王オッファ即位(-796):マ
ーシア全盛期
ローマ教皇パウルス1世即位(-767)
| | イスラム世界で最初の製紙工場がサ
マルカンドに設立 | | | 安禄山が子の安慶緒に殺害される 唐
とウイグルの連合軍(郭子儀)が西
京長安を奪回、東京洛陽を回復
史思明降る 帰義王・范陽節度使と
なる | 新羅 百官の月俸をやめ、再び禄邑と
する また全国を9州に分け、郡県の
名を改める | 養老律令を施行
孝謙天皇が道祖王を廃太子とし、大
炊王を皇太子とする
橘奈良麻呂の乱
雑徭60日を半減 |
758 | | ビザンツ軍、トラキアでスラブ人
を破る | ペルシア系過激派ラーワンディーヤ
の乱起る | ca.ラーシュトラクータ朝クリシ
ュナ1世即位(-773) | 唐の粛宗の王女寧国公主がウイグル
の葛勒可汗と婚姻 | 唐 成王李俶、皇太子となる 史思明背
く 唐の塩鉄使の第五琦が塩の専売制
を行う、乾元重宝銭が鋳造
唐の顔真卿による「祭姪文稿」が書
かれる | | 孝謙天皇が譲位し、第47代淳仁天皇
が即位
太保藤原仲麻呂は恵美押勝の名を賜
与される |
759 | フランク王ピピン3世(小ピピン)
がナルボンヌを奪回し、南フランス
からイスラム教徒を放逐 | | | | ウイグルで登里可汗即位(-779) | 史思明、大聖燕王を自称 史思明が
安慶緒を殺害 大燕皇帝を自称、順天
と改元、范陽を燕京と改称
李光弼、史思明を范陽に破る
史思明、洛陽に入る 劉晏、戸部侍郎
となる 度支・鋳銭・塩鉄等使とな
る 宦官李輔国、太上皇を西内甘露殿
に移し、顔真卿・高力士らを流罪と
する 江淮都統劉展、反対勢力の攻
撃を受け乱を起す | | 鑑真により唐招提寺が創建される
藤原仲麻呂の新羅征討計画が頓挫す
る
陸奥国桃生城・出羽国雄勝城築城
『万葉集』に採録された最も年代の
新しい大伴家持の和歌が詠まれる
この年以降に『万葉集』が成立する
|
760 | フランク王ピピン3世(小ピピ
ン)、アキテーヌに勢力を拡大 | | ca.散文学者イブン=アルム
カッファー没 | | | 揚州大虐殺 ca.書家僧懐素没 | | |
761 | ca.カウィール・チャン・キニチがド
ス・ピラスを放棄し、アグアテカに
遷都する
| | | | | 唐 劉展敗死し、乱終る 史思明が長子
史朝義に殺害される 史朝義即位
詩人王維没
| | 下野薬師寺・筑紫観世音寺に戒壇を
立てる |
762 | フランク アキテーヌで反乱起る
小ピピン、これを鎮圧 | | アッバース朝のカリフ・マンスール
がハーシミーヤからバグダードに遷
都(-766)
シーア派のイブラヒームとムハンマ
ド、反乱を起す(-763) | | 回鶻(ウイグル)の牟羽可汗がマニ
教を受容
| 唐で太上皇(玄宗)と粛宗が相次
いで死去 代宗即位(-779)
:粛宗の張皇后と宦官李輔国を倒し
た宦官程元振が実権を握る
唐、ウイグルの助けを得て、史朝義
を破り、東京洛陽を回復
詩人李白没
| 唐が大欽茂を渤海国王とする | 陸奥国国府に多賀城碑が建てられる
淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を選
定する(-764)
|
763 | ナポリ公国が東ローマ帝国から自立
し、ローマ教皇側に与する | アンキアロスの戦:ビザンツ軍、
ブルガール軍を撃破 | | | | 唐 劉晏、宰相となる ウイグル(回
鶻)の牟羽可汗が史朝義を自殺に追
い込み、安史の乱が終結 道挙廃止
僕固懐恩、吐蕃・回紇を誘い謀反を
起す:僕固懐恩の乱(-765) 代宗、陝
州に避難し、吐蕃が一時的に唐の長
安を占領 郭子儀、長安を回復 | | 儀鳳暦を廃し、大衍暦を使用 |
764 | | | | | | 唐 雍王李适を皇太子とする 初めて五
紀暦(郭献之らの作)頒行(-783)
青苗銭(地頭銭)を徴して百官の俸
に充てる 李光弼没 郭子儀ら、
僕固懐恩を破る | | 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の
乱):太政大臣押勝、近江で敗死
乱を鎮圧した孝謙上皇が重祚して、
第48代称徳天皇となり、淳仁天皇を
廃して淡路国に配流とする |
765 | フランク 宮廷をエクス=ラ=シャペ
ル(アーヘン)に置く
小ピピン、バグダードへ遣使 | ビザンツ、ブルガール人と7年間の
休戦を約す | バルマク家のハーリド、モスル総督
となる 第6代シーア派イマームのジ
ャーファル=アッサーディク没:後
継イマームをめぐり、シーア派が十
二イマーム派(主流派)と七イマー
ム派(非主流派・イスマーイール
派)に分離する
| ca.パーンディヤ朝のネードゥンジャ
ダイヤン即位(-815)
ca.パッラヴァ朝、チェーラ朝との抗
争に勝つ
ca.セイロンでマヘーンドラ2世即位
(-785):内紛続く | 吐蕃、唐に和を求める | 唐 第五琦の建議により麦に「什一の
税(10分の1税)」を課す 僕固
懐恩、回紇・吐蕃・吐谷渾などの
大軍で進攻の途上、鳴沙で没 宦官
魚朝恩、神策軍で禁軍統轄
詩人高適没
| 新羅 恵恭王即位(-780) | 寺院以外の墾田開発を禁止
道鏡が太政大臣禅師となる
称徳天皇の発願で大和西大寺が創建
この年(神護元年)記された木簡
に、式部省大学寮で破斯清道という
官吏が働いていたことが記される
破斯清道はペルシャ人とする説があ
る |
766 | | | バグダードの建設成る(762-) | | ca.カルルク人、タリム盆地を支配
| 唐 戸部尚書劉晏と侍郎第五琦、全国
の財政を分担して処理にあたる 民衆
の流亡が多いため、麦の什一税法
を停止 散文李華没 | | 道鏡が法王になる
藤原真楯没
|
767 | | 総大司教コンスタンティヌス処刑さ
れる | ヘラートで予言者シースの反乱起る
ハニーファ派法学の祖アブー=ハニ
ーファ没 ca.歴史家イブン=イスハー
ク没『ムハンマド伝』
| シャイレーンドラ朝軍が北ベトナム
の安南都護府を攻撃 | | | | 陸奥国伊治城を築く |
768 | フランク王ピピン3世(小ピピン)
が死去、長子カール大帝(シャルル
マーニュ)と次子カールマン(カル
ロマン)が共同のフランク王に即位
(-771)
ローマ教皇ステファヌス3世(4世)
即位(-772)
| | | | 吐蕃、唐の霊武に侵寇 | 唐 朱希彩、節度使李懐仙を殺し、幽
州留後を自称 幽州・盧竜節度使と
なる ウイグル系摩尼教徒により長安
に大雲光明寺が建てられる | 新羅 大恭・大廉らの貴族、反乱を起
し平定される:以後、貴族の乱続発 | 藤原永手が鹿島・香取・枚岡各社の
祭神を勧請し春日大社を創建
|
769 | フランク アキテーヌで再び反乱起る
カール大帝、これを討伐 | ヴェレガヴァの戦:ブルガール
軍、ビザンツ軍を撃破 | | | | | | 宇佐八幡宮神託事件で和気清麻呂が
大隅国に流罪となる
称徳天皇への呪詛により異母妹不破
内親王が内親王位を剝奪 |
770 | フランク・ランゴバルド同盟 | | | ca.ダルマパーラ(-810)、パーラ朝
の基を築く
| | 唐 皇帝代宗と宰相元載により宦官魚
朝恩が誅殺 詩人杜甫・岑参没 ca.書家
李陽冰没
| 新羅 大阿飡金融の乱 | 称徳天皇の命で法隆寺など有力寺院
に百万塔陀羅尼(三重小塔百万
基)が奉納される
称徳天皇が死去し、第49代光仁天皇
が即位
道鏡を下野国薬師寺別当に左遷する
光仁天皇の皇后井上内親王と皇太子
他戸親王が廃される
安倍仲麻呂が唐で没す
|
771 | カールマンの死去によりカール大帝
がフランク単独の王となる | | | | | 唐 李栖筠、御史大夫となる 尚書右丞
韓滉、戸部侍郎判度支となり、財政
再建に尽くす | | |
772 | フランク王カール大帝によるザクセ
ン戦争(-804)
ランゴバルド王デシデリウス、ロー
マ市を攻撃
ローマ教皇ハドリアヌス1世即位
(-795)
| ビザンツ・ブルガール、戦争再開 | | | | 唐 幽州・盧竜節度使朱希彩、部下に
殺される 経略副使朱泚、弟朱滔の計
によって幽州・盧竜節度使となる
古文運動の先駆者元結没 | | 開墾禁止令を解除 |
773 | ローマ教皇、カール大帝に救援 カー
ル大帝、ランゴバルドに遠征、パヴ
ィアを包囲 | | | | 唐の郭子儀の諸将、吐蕃の侵攻に苦
しめられる | 唐 循州刺史哥舒晃、嶺南節度使を
殺し嶺南で背く 魏博節度使田承
嗣、相となることを請う | | 良弁没
|
774 | フランク王カール大帝がランゴバル
ド王国を滅ぼし、その王を兼ね、
「ランゴバルドの鉄王冠」を取得
「ピピンの寄進」を確認
マーシア王オッファ、ケント・ウェ
セックスに勢力を伸ばす | | | | | 唐 中国密教の大成者不空金剛没
魏博節度使田承嗣、昭義の将吏を誘
って乱を起す | 新羅の宰相金大城による慶州の石仏
寺(現在の石窟庵)が完成 | 仏師・造東大寺次官の国中公麻呂没 |
775 | | ビザンツ コンスタンティノス5世コ
プロニュモス没、その妃エイレーネ
ー、レオーン4世ハザロスと共治
(-780)、帝国の実権を握る
| アッバース朝カリフのマンスール
没、マフディーがカリフとなる
(-785) | この年建てられた「リゴール碑文」
によるとシャイレーンドラ王家がシ
ュリーヴィジャヤを支配した記録が
残る | 吐蕃王ティソン=デツェンがサムイ
ェー寺を建設
| 唐 田承嗣、昭義の相州を奪う 衛州を
奪う 嶺南節度使路嗣恭、哥舒晃を討
ち、広州で斬る
ca.沈既済の伝奇小説『枕中記』成る | | |
776 | | | ホラーサーン地方でムカンナーの反
乱(-783) | | 唐が対回紇策として、朔方5城の守
兵を増加 | 唐 相州・衛州奪取の田承嗣、罪を許
される 汴宋留後田神玉没し内紛起
る、田承嗣これに介入 李霊曜、汴宋
留後となる 京師で斬殺される | | |
777 | サラゴサ知事の反抗
フランク パーデルボルンの国会
(-778) | ブルガール カルダム即位(-802) | ハワリージュ派穏健派のイバード派
イブン=ルスタム、イマームと称
して西アルジェリアにルスタム朝を
興す(-909)
神秘主義者イブラーヒーム=ビン=
アザム没 | | | 唐 李霊曜を助けた田承嗣、再び罪を
許される 代宗、宰相元載を専横の罪
で殺し、王縉を左遷 段秀実、涇原・
鄭潁節度使となる 散文独孤及没 | | 遣唐使派遣:遣唐副使小野石根らを派遣 |
778 | カール大帝、ウィトゥキントの率い
るザクセン人の反乱討伐
カール大帝、スペイン遠征、スペイ
ン辺境領を設置
その帰途、バスク人などにより後衛
軍がロンスヴォーの戦で敗退
この事件がもととなり後に『ローラ
ンの歌』が作られる
| ゲルマ=ケイアの戦:ビザンツ軍、
アラブ軍を撃破 | アラブ軍、サラゴサ進攻のカール大
帝のフランク軍をロンスヴォー谷で
壊滅 | インドネシアのジャワ島中部にある
カラサン寺院が創建され、近辺にカ
ラサン碑文が残される
| 回紇、太原に侵攻するも唐に退けられる
唐、吐蕃からの侵攻続くが、李懐
光、これを退ける | | | |
779 | マーシア王オッファ、ウェセックス
を破り、全イングランドに覇を唱え
る
カール大帝によるヘルスタル勅令
(The Capitulary of Herstal):
この法令によりフランク王国のキリ
スト教徒は教会に十分の一税を納め
ることが定められる | | | | 回鶻(ウイグル)の牟羽可汗が殺害
され、宰相の頓莫賀達干が合骨咄禄
毘伽可汗として即位、マニ教は弾圧
される
吐蕃のペル=サムイェー寺本堂成る
(775-):初めて6人の僧に具足戒を与
える | 唐 田承嗣没、子の田悦が魏博留後と
なる 李希烈、淮西節度使を追い、自
ら留後となる 節度使となる 代宗没、
徳宗即位(-805)
楊炎、宰相となる 異牟尋、南詔王
となる吐蕃・南詔、連合して3道よ
り唐の西辺に侵攻するも敗退 宣王
李誦、皇太子となる | | 藤原百川没
|
780 | カール大帝、ザクセンの反乱を鎮圧
キリスト教信奉条例
ミスク=モンク、新宣教地を求めて
アイスランドに赴く | ビザンツ レオーン4世没、エイレ
ネ、子のコンスタンティノス6世
(-797)を皇帝として支配権を振い、
聖像崇拝を復活
| | プラティーハーラ朝のヴァッツァラ
ージャ即位(-800)
ca.インドネシアのシャイレーンドラ
朝がボロブドゥールの建設を始める
| ca.カルルク人、天山北路を支配 | 唐の宰相楊炎の建議により租庸調制
から両税制(両税法-戸税と地税)へ
税制を移行 劉晏、楊炎の進言により
転運・租庸・青苗・塩鉄等使を辞
めさせられる 黜陟使11人に全国を分
巡させる 魏博節度使田悦、黜陟使に
よって部下7万の中の4万を帰農さ
せられる:節度使勢力抑制策のひと
つ 劉晏、楊炎と対立し、左遷させら
れた後に殺される 散文粛潁之没 ca.画
家周昉・李真没 | 新羅 金志貞の乱起り、金良相、挙兵
して金志貞を殺す 恵恭王、乱徒に殺
され、金良相が王となる(宣徳王) | 上治郡の大領伊治呰麻呂が反乱:按
察使紀広純を殺害、多賀城が焼失
する(宝亀の乱) |
781 | | ビザンツ、バルカンのスラブ人の反
乱を鎮圧 | | ca.カシミール王国の宰相・詩人・風
俗抒情詩ダーモーダラグプタ没 | | 唐 成徳節度使李宝臣没し、子の李惟
岳、継承を請う 徳宗が節度使抑圧
策により請願を認めず 李惟岳、留
後を自称し河朔三鎮・河南二鎮の節
度使(藩鎮)の反乱を誘発する
盧杞を宰相とし、楊炎を牽制させる
軍興を理由に商税を什一(10分の
1)とする(従来は30分の1)
魏博節度使田悦ら、李惟岳を助け、
邢州・臨■(氵に名)を囲む 郭子
儀没 楊炎、罷免され殺される
李納、平盧節度使李正己の喪を発し、
その襲位を願うも許されず、田悦ら
に呼応
中央アジア出身の伊斯が長安の大秦
寺に「大秦景教流行中国碑」を建立
カシミール人の僧侶プラジュニャ
(般若三蔵)が広州に到着 | | 光仁天皇が病気のため譲位し、
桓武天皇が即位
|
782 | フランクとザクセン人の戦い、再び
激化(-785) フランク王国の宮廷学校
にヨーク出身のアルクィンが招か
れ、アインハルトと共に学芸の復興
に尽くす(カロリング・ルネサンス
の始まり)
| | | シャイレーンドラ朝の王ダルマトゥ
ンガ没 | | 唐 馬燧ら、田悦を破る 朱滔ら、
李惟岳を破る 李惟岳、部下王武俊
に殺される 朱滔・王武俊、賞を不
満とし田悦と結ぶ 朔方節度使李懐
光、田悦らの征討を命じられる 河
朔3鎮の魏博の田悦が魏王、成徳の
王武俊が趙王、盧竜の朱滔が冀王を
称し、河南平盧の李納が斉王を称す
(盟主は朱滔) 河南淮西節度使李
希烈、乱に呼応 天下都元帥・太尉
建興王と称す:河朔3鎮・河南2鎮
の乱となる 荊渓湛然没(天台宗) | | 氷上川継の乱 大伴家持を陸奥按察
使・鎮守将軍に任命、蝦夷征討を準
備 |
783 | フランク王カール大帝の命で『ゴデ
スカルクの福音書』が作られる
ca.マーシア王オッファ、ウェールズ
との国境に長大な土塁を建設:オッ
ファの塁壁
| バルカン南部のスラブ人、ビザンツ
に対してしばしば反乱を起す
ビザンツ、アラブと一時休戦(-786) | | | 吐蕃、唐との国境を画定 | 唐 顔真卿、盧杞の策により李希烈宣
慰の命を受ける 軍備充当のため間架
税(一種の家屋税)と除陌銭(給
与・売買時の毎緡50銭の税)を実施
李希烈、襄陽を囲む 襄陽救援に向か
う涇原節度使の兵、京師長安で乱
を起し朱泚を擁立:朱泚の乱 皇帝
徳宗が長安から奉天に逃れ、段秀実
殺害される 朱泚、大秦皇帝と自称
し、応天と改元 李希烈、襄陽を攻略
盧杞、左遷される
この時期に何家村の宝物が埋蔵され
たか(何家村唐代窖藏) | | 出羽国蝦夷、雄勝に侵攻 |
784 | | | | | | 唐 大赦を行う:田悦・王武俊・李
納、王号をやめ謝罪 朱泚、国号秦を
漢と改め、漢元天皇と称す 李希烈、
帝位につき国号を大楚とする 間架
税・除陌銭などを廃止 李懐光背き、
朱泚と結ぶ 李晟、長安を回復 朱泚、
逃走中に殺される 李希烈、顔真卿を
殺害
| | 山背国長岡京に遷都
王臣家・諸司・寺家の山野の独占を
禁止 |
785 | フランク カール大帝、ザクセンの反
乱鎮定 その指導者ウィトゥキントを
改宗させる:ザクセンのカトリック
化進む ケルン大司教座が置かれる
ca.後ウマイヤ アブド=アッラフマー
ン1世、コルドバのモスクを建設
| | アッバース朝 アル=ハーディがカ
リフとなる(-786) | | | 唐 馬燧・渾■(王へんに咸)、李懐
光を破る 朱滔病没 馬燧の軍、河中に
迫り李懐光自殺 徳宗の命で楊良瑶が
アッバース朝に派遣される | 新羅 元聖王即位(-799) | 長岡京建設の責任者藤原種継が暗殺
される
この事件で桓武天皇の弟で皇太子の
早良親王が流罪となるがその途上で
憤死 大伴家持没 |
786 | フランク王カール大帝、ブルターニ
ュのブルトン人を討伐 アーヘン大聖
堂の建設に着手 | ビザンツとアラブの戦闘再開:ビザ
ンツ軍敗退、聖像崇拝めぐり首都コ
ンスタンティノープルで反乱起る | アッバース朝でハールーン・アッ=
ラシードがカリフとなる(-809)(ア
ッバース朝の最盛期)
メディナでアリーの子孫イドリース
が乱を起す | | 唐が吐蕃の敦煌(沙州)を占領 | 唐 李希烈、部将陳仙奇に毒殺される
陳仙奇、淮西節度使となる 呉少誠、
陳仙奇を殺し、淮西留後となる 韓
滉、度支諸道塩鉄・転運等使を兼
ねる | | 東海・東山両道の兵士・武具を検閲
蝦夷征討を準備 |
787 | ヴァイキング、初めてイングランド
のドーセット海岸に来襲 イングラン
ドの大司教座、リッチフィールドに
置かれる 首座、一時カンタベリから
移る(-803)
フランク、ベネヴェントを降す | 第2ニケーア公会議:聖像崇拝を是
認
ハザール人がブルガール侵寇 | | ca.無相唯識論 シャーンタラクシタ没
| | 唐 韓滉没 渾■(王へんに咸)、平涼
で吐蕃と会盟 李泌、宰相となる 各
州における租税収入中、留使(節度
使・観察史の費用に充当)・留州
(州の費用に充当)分以外は京師
に送らせる | | |
788 | インゲルハイム・アム・ライン国家
会議
フランク国王カール大帝がバイエル
ン地方に侵入のアヴァール族を征
討、アヴァールと結んだ部族公タッ
シロ3世を追放、バイエルンを併合
ブレーメン司教区創設
後ウマイヤ アブド=アッラフマーン
1世没 | ビザンツ軍、イタリア攻撃に失敗、
またブルガール人攻撃にも敗北 | | | 回鶻の頓莫賀達干と唐の咸安公主の結婚 | | 新羅 読書3品科(中国の古典を用
いて3等に分けて人材登用する方
法)を置く:官吏登用試験(科挙)
の採用 | 紀古佐美、阿弖流為に敗れて帰京、
処罰される
最澄が一乗止観院を建てる(後の比
叡山延暦寺)
|
789 | フランク王カール大帝、スラヴ人を
討伐 「一般訓令(Admonitio
generalis)」:各修道院に付属学校
の開設を命じる | | イドリース、マグリブ西部のモロッ
コに逃れ、フェスで最初のシーア派
王朝イドリース朝を興す(-926)
| | | 唐 李泌没 剣南西川節度使韋皋、吐
蕃・青海・東蛮などを雟州で大破 イ
ンドから唐僧悟空(達摩駄都)が約
40年ぶりに帰国 | | |
790 | | | | | 北庭都護府・安西都護府、共に吐蕃
に攻略され消滅 | 唐 徳宗、岐山無憂王寺の仏指骨を
禁中に置く | 新羅 全州碧骨堤の修築 | |
791 | フランク国王カール大帝がアヴァー
ル族の侵入を撃破(-796)
ミュンステル司教区創設
アストゥリアス王アルフォンソ2世
即位(-842) | | ca.文献学者アル・ハリール・イブ
ン・アフマド・アル・ファラーヒデ
ィー没(786とも)
| ヴェトナムで馮興・馮安が唐に反乱
を起す | 吐蕃、霊州を囲む、所在のウイグル
人敗退 | 唐 翰林学士陸贄、竇参に憎まれ兵部
侍郎となって余職を解かれる | | 大伴弟麻呂を征夷大使に、坂上田村
麻呂を副使に任命 |
792 | | | | ca.ラーシュトラクータ朝ゴーヴィン
ダ3世(-814)、勢力を拡大
| | 唐 竇参左遷され、陸贄が宰相となる
平盧節度使李納没 徳宗、陸贄の反対
を抑え、裴延齢を判度支とする | 吉林省和竜市の龍頭山古墓群に渤海
王大欽茂の王女貞孝公主墓が造営 | 桓武天皇により諸国の軍団・兵士が
廃止され、健児の制が導入 |
793 | アラブ軍、ピレネーを越えナルボン
ヌを攻撃 ザクセンの反乱再開
イングランド北部のリンデスファー
ン修道院がヴァイキングに襲撃さ
れ、ヴァイキング時代の幕開けとな
る
マーシア王オッファ、イースト=ア
ングリア王国を併合 | | バグダードに最初の製紙工場が設立
ca.バスラ派の文法学者シーバワイフ
没『書』 | | | 唐 塩鉄使張滂の進言により、初めて
茶に什一の税を課す 竇参、死罪とな
る 李晟没 都知兵馬使李万栄、宣武
節度使劉士寧を退け、留後となる | | |
794 | フランク国王カール大帝、アラブ人
を討伐、スペインに撃退される
(-796)
第2次ザクセン戦争(-799)
カール大帝の招集によるフランクフ
ルトの公会議が開催:「キリスト養
子論」を否定
ヴァイキング、ジャロウ修道院を破
壊 | | | ca.プラティーハーラ朝ナーガバタ2
世(-ca.833)、ラーシュトラクータ朝
と争う(-795) | 吐蕃でインド仏教が禅と論争して勝つ | 唐 雲南王異牟尋、吐蕃との盟を廃
し、唐に従う 異牟尋、唐から南詔王
に封じられる 陸贄、裴延齢らの策
により宰相を辞める | 渤海王大欽茂没、廃王大元義・成王
大華與(嶼)立つ | 平安京へ遷都し平安時代はじまる
山背国を山城国へ改称 |
795 | カール大帝、スペイン辺境領を設置
アヴァール人の本拠を急襲
パーデルボルン司教区創設
ヴァイキング、アイオナ修道院を劫
略、アイルランドに上陸
ローマ教皇レオ3世即位(-816)
| | マーリク派法学の祖マーリク=ビン
=アナス没
ca.バビロニアのユダヤ教哲学者アナ
ン・ベン・ダヴィド没 | | 回鶻(ウイグル)の懐信可汗が即
位、マニ教が再び国教とされる | 唐 陸贄左遷され、忠州別駕となる 馬
燧没 南詔、吐蕃を攻め昆明城を取る | 大嵩璘(鄰)、忽汗州都督・渤海王
とされる | 雑徭を30日に半減 東国防人を廃し、
九州の兵を充てる 大極殿成る
|
796 | カール大帝、アーヘンに聖堂造営
(-805)
マーシア王オッファ、カール大帝と
の間に通商条約を締結 オッファ没、
ツェンウルフ即位(-821)
後ウマイヤ ハカム1世即位(-822)
| ビザンツ コンスタンティノス6世、
ブルガール人を討伐 | アッバース朝カリフのハールーン・
アッ=ラシードがラッカに宮廷を遷
す(-809)
クレタ島の大地震、エジプトでは
アレクサンドリアの大灯台が半壊す
る | | 吐蕃、雟州に侵寇 | 唐 節度・観察使に検校官が加わる 初
めて神策軍に護軍中尉が置かれ、宦
官が任用される 裴延齢没 | | 坂東・北陸の民9000人を陸奥伊治城
に移す |
797 | トレドでアラブ人の支配に対する反
乱勃発
フランク国王カール大帝がアッバー
ス朝のハールーン・アッ=ラシー
ドに使節を送る
ca.歴史家パウルス=ディアコヌス没
『ランゴバルド史』
| ビザンツ皇帝コンスタンティノス6
世が母エイレーネーによって廃位さ
れ、エイレーネーがローマ帝国初の
女帝として即位(-802) | ca.アッバース朝カリフのハールー
ン・アツ=ラシード、フランクのカ
ール大帝と親交(-806) | | 吐蕃のティソン=デツェン退位、ム
ルク・ツェンポ即位後、ティデ・ソ
ンツェン即位(-815)
ca.唐僧摩訶衍がインド僧カマラシー
ラに敗北しチベットから退去 サムイ
ェー寺の宗論が終わる | ca.唐 宦官、宮市使(宮中の日用品購
入のため長安の東西市に使いする
役)となり弊害を増す | | 『続日本紀』成る
勘解由使を新設
坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命さ
れる
空海が『三教指帰(聾瞽指帰)』を
執筆
|
798 | ca.ヴァイキング、アイルランドにダ
ブリン市を建設
ザルツブルグ大司教座設立
リスボン市、アラブの手中から回復 | | ハナフィー派法学の事実上の創始者
アブー=ユースフ没『ハラージュの
書』 | | | 唐 初めて左右神策統軍を置く 彰
武節度使呉少誠背く | | 坂上田村麻呂、清水寺を建立
|
799 | カール大帝、アドリア湾頭の港市フ
ィウメを攻撃、破壊
内紛のため教皇レオ3世、カール大
帝の宮廷に亡命 | | | | | 唐 呉少誠、官爵を剥奪され、諸道の
兵に征討が命ぜられる 渾■(王へん
に咸)没 | 新羅 昭聖王即位(-800) | |
800 | カール大帝、レオ3世をローマに復
帰させる フランク国王カールがロー
マ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」
の冠を受ける(カール大帝)
カール大帝、ボヘミアに遠征
ca.スラヴ族、オーデル川流域に拡大
ハールーン・アッ=ラシード、カー
ル大帝の宮廷に使節を派遣
ヴァイキング、北部フランクを荒ら
す
ca.リエバナのベアトゥス没『黙示録
注解』 | セルビア人、キリスト教帰依 | ホラーサーン司令官の子イブラーヒ
ーム=ビン=アルアグラブ、イフリ
ーキヤ総督となり、チュニジアの
カイラワーンを首都とするアグラブ
朝を興す(-909)
ca.ヌビア(スーダン)の国家マクリ
アにあるファラスの聖堂遺跡が造ら
れる(独特のキリスト教文化の発
展)
| | ca.瑜伽行中観派の僧侶カマラシーラ没 | 唐 呉少誠、諸道の征討軍を破る 呉少
誠、韋皋・賈耽の進言により官爵を
復される | 新羅 哀荘王即位(-809) | 早良親王に「崇道天皇」の追尊号が
贈られる
富士山の延暦噴火
大隅・薩摩2国に初めて班田を実施 |
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