天皇の称号について
古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といった。天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。10世紀以降、1000年近く「天皇」号の使用は廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
在位中の天皇は、帝、御門(みかど)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)、禁中(きんちゅう)、御所(ごしょ)などと呼ばれた。当代の天皇は「当今の帝(とうぎんのみかど)」などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。
皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語として「治天の君」がある。
話題にする際の呼称については、一般的に、「皇上」「聖上」「聖主」「主上」「天子」などが用いられてきたが、明治中期頃になり、「天皇(陛下)」という呼称が定着してくる。
特に外交においては、古代から、「日本国皇帝」も用いられる。
神代
代
氏名
在位期間
事績
3代
549 B.C. – 511 B.C.
綏靖天皇33年7月15日 – 安寧天皇38年12月6日
10代
97 B.C. – 30 B.C.
崇神天皇元年1月13日 – 同68年12月5日
詔を発して万世一系を謳った
四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言
戸口を調査して初めて課役を課した
任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた
古墳時代
3世紀中頃 – 7世紀頃
『日本書紀』や『古事記』による文献上の大和時代
推定・比定される天皇在位期間と記紀の記述には不一致があるため、便宜的に垂仁天皇以降を古墳時代とする
代
氏名
在位期間
事績
21代
456 – 479
安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日
考古学で存在が確認された最古の天皇
地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大、強力な専制君主として君臨
吉備氏の乱
養蚕の推奨
新羅への出兵
呉(南朝)への遣使(倭王武?)
23代
485 – 487
顕宗天皇元年1月1日 – 同3年4月25日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に地方に逃れる
24代
488 – 498
仁賢天皇元年1月5日 – 同11年8月8日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に地方に逃れる
25代
488 – 498
仁賢天皇11年12月 – 武烈天皇8年12月8日
大伴金村を大連とする
法令を用いて厳正に訴訟を取り扱った
『日本書紀』では異常性癖(異常行動)が記されている
26代
507.3.3 – 531.3.10
継体天皇元年2月4日 – 継体天皇25年2月7日
武烈天皇崩御後、越前国高向から迎えられる
527: 磐井の乱起る
27代
531.2.7 – 535.12.17
継体天皇25年2月7日 – 安閑天皇2年12月17日
66歳にして即位したが、わずか4年で崩御
531: 辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)による2朝並立の説もあり
28代
536.1 – 539.3.15
宣化天皇元年12月 – 宣化天皇4年2月10日
満69歳にして即位
筑紫の官家の整備
大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送る
ca.536: 蘇我稲目を大臣に任命、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる
29代
539.12.30 – 571.5.24
宣化天皇4年12月5日 – 欽明天皇32年4月15日
540: 大伴金村が失脚
552: 百済から仏像と経文が伝来(日本への本格的な仏教伝来)
562: 新羅が任那を滅ぼす
30代
572.4.30 – 585.9.14
敏達天皇元年4月3日 – 敏達天皇14年8月15日
ca.578: 金剛組が宮大工の集団として発足
ca.585: 物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせる
31代
585.10.3 – 587.5.21
敏達天皇14年9月5日 – 用明天皇2年4月9日
崇仏派で仏法を重んじ、王朝において仏教を公認
587: 蘇我馬子・厩戸皇子ら、物部守屋を討滅
32代
587.9.9 – 592.12.12
用明天皇2年8月2日 – 崇峻天皇5年11月3日
588: 飛鳥寺が建立
591: 任那復興軍を筑紫に派遣
592: 蘇我馬子が東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
飛鳥時代
代
氏名
在位期間
事績
33代
593.1.15 – 628.4.15
崇峻天皇5年12月8日 – 推古天皇36年3月7日
34代
629.2.2 – 641.11.17
舒明天皇元年1月4日 – 舒明天皇13年10月9日
630: 第一回遣唐使
637: 蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる
35代
642.2.19 – 645.7.12
皇極天皇元年1月15日 – 皇極天皇4年6月14日
36代
645.7.12 – 654.11.24
皇極天皇4年6月14日 – 白雉5年10月10日
645: 史上初めて元号を立て「大化」とする
鍾匱の制
646: 改新の詔
- 公地公民
- 班田収授法
- 国郡里制
37代
655.2.14 – 661.8.24
斉明天皇元年1月3日 – 斉明天皇7年7月24日
史上初の重祚
659: 阿倍比羅夫が粛慎 (みしはせ)を討つ
–
661 – 668.2.20
天智天皇元年 – 天智天皇7年1月3日
40代
673.3.20 – 686.10.1
天武天皇2年2月27日 – 朱鳥元年9月9日
皇親政治
681: 飛鳥浄御原令の編纂を命じる
684: 八色の姓を定める
ca.685: 式年遷宮の制が立てられる(690とも)
奈良時代
代
氏名
在位期間
事績
43代
707.8.18 – 715.10.3
慶雲4年7月17日 – 和銅8年9月2日
44代
715.10.3 – 724.3.3
霊亀元年9月2日 – 養老8年2月4日
718: 藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める
720: 『日本書紀』が完成
723: 三世一身法が制定
45代
724.3.3 – 749.8.19
神亀元年2月4日 – 天平感宝元年7月2日
47代
758.9.7 – 764.11.6
天平宝字2年8月1日 – 天平宝字8年10月9日
平安時代
- 794年 平安京に遷都
- 866年 藤原良房が人臣初の摂政に任じられる
- 887年 藤原基経が関白に任じられる
- 1087年 堀河天皇に譲位した白河上皇が院政を始める
摂関政治(藤原頼道まで)
年代 | 天皇 | 摂政 | 関白 |
---|---|---|---|
858年 | 清和 | ||
866年 | 応天門の変 良房(外祖父) | ||
876年 | 陽成 | 基経(外伯父) | |
887年 | 宇多 | 阿衡事件 基経(岳父) | |
891年 | 寛平の治 | ||
897年 | 醍醐 延喜の治 | ||
930年 | 朱雀 | 忠平(外伯父) | |
941年 | 忠平(外伯父) | ||
946年 | 村上 | 忠平(外伯父) | |
967年 | 冷泉 | 実頼(大伯父) | |
969年 | 円融 | 実頼(大伯父) | |
970年 | 伊尹(外伯父) | ||
973年 | 兼通(外伯父) | ||
977年 | 頼忠 | ||
984年 | 花山 | 頼忠(岳父) | |
986年 | 一条 | 兼家(外祖父) | 寛和の変 |
990年 | 兼家(外祖父) | ||
道隆(外伯父) | |||
道隆(外伯父) | |||
993年 | 道隆(外伯父) | ||
995年 | 道兼(外伯父) | ||
996年 | 長徳の変 | ||
1011年 | 三条 | ー | ー |
1016年 | 後一条 | 道長(外祖父) | |
1017年 | 頼通(外叔父) | ||
1020年 | 頼通(外叔父) | ||
1036年 | 後朱雀 | 頼通(外叔父) | |
1045年 | 後冷泉 | 頼通(外叔父) |
院政(承久の乱まで)
年代 | 天皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 |
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1087年 | 堀河 | 白河 | ||||||||
1107年 | 鳥羽 | |||||||||
1123年 | 崇徳 | 鳥羽 | ||||||||
1129年 | 没 | |||||||||
1142年 | 近衛 | 崇徳 | ||||||||
1155年 | 後白河 | |||||||||
1156年 | 没 | 保元の乱 | ||||||||
1158年 | 二条 | 後白河 | ||||||||
1165年 | 六条 | 二条 没 | ||||||||
1168年 | 高倉 | 六条 | ||||||||
1176年 | 没 | |||||||||
1179年 | 治承三年の政変 | |||||||||
1180年 | 安徳 | 高倉 | ||||||||
1181年 | 院政を復活 | 没 | ||||||||
1183年 | 後鳥羽 | |||||||||
1192年 | 没 | |||||||||
1198年 | 土御門 | 後鳥羽 | ||||||||
1210年 | 順徳 | 土御門 | ||||||||
1221年 | 仲恭 | 承久の乱 隠岐に配流 | 承久の乱 土佐に配流 |
代
氏名
在位期間
事績
50代
781.4.30 – 806.4.9
天応元年4月3日 – 延暦25年3月17日
51代
806.4.9 – 809.5.18
延暦25年3月17日 – 大同4年4月1日
806: 六道観察使を初めて設置
807:『古語拾遺』成る
807: 伊予親王の変
52代
809.5.18 – 823.5.29
大同4年4月1日 – 弘仁14年4月16日
810: 薬子の変(平城太上天皇の変)
814: 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる(嵯峨源氏、賜姓源氏の始まり)
53代
823.5.29 – 833.3.22
弘仁14年4月16日 – 天長10年2月28日
825: 高棟王に平姓を賜う
831: 滋野貞主が日本最古の類書(百科事典)の『秘府略』1000巻を編纂する
833: 清原夏野ら『令義解』を撰集
54代
833.3.22 – 850.5.4
天長10年2月28日 – 嘉祥3年3月19日
838: 小野篁を隠岐国に配流
838: 承和の遣唐使(事実上の最後の遣唐使)
842: 承和の変
55代
850.5.4 – 858.10.7
嘉祥3年3月19日 – 天安2年8月27日
ca.850: この頃から班田制の崩壊はじまる
850: 橘嘉智子没、嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)、学館院を設立
56代
858.10.7 – 876.12.18
天安2年8月27日 – 貞観18年11月29日
59代
887.9.17 – 897.8.4
仁和3年8月26日 – 寛平9年7月3日
887: 阿衡事件(阿衡の紛議)
藤原基経を関白に正式任命
891: 寛平の治
894: 遣唐使派遣が停止
60代
897.8.4 – 930.10.16
寛平9年7月3日 – 延長8年9月22日
63代