天皇の称号について
古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といった。天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。10世紀以降、1000年近く「天皇」号の使用は廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。
在位中の天皇は、帝、御門(みかど)、禁裏(きんり)、内裏(だいり)、禁中(きんちゅう)、御所(ごしょ)などと呼ばれた。当代の天皇は「当今の帝(とうぎんのみかど)」などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。
皇室の当主として政務の実権を握った天皇または太上天皇(上皇)を指す用語として「治天の君」がある。
話題にする際の呼称については、一般的に、「皇上」「聖上」「聖主」「主上」「天子」などが用いられてきたが、明治中期頃になり、「天皇(陛下)」という呼称が定着してくる。
特に外交においては、古代から、「日本国皇帝」も用いられる。
神代
代
氏名
在位期間
事績
10代
崇神天皇
すじん
開化天皇の第二皇子
97 B.C. – 30 B.C.
崇神天皇元年1月13日 – 同68年12月5日
詔を発して万世一系を謳った
四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言
戸口を調査して初めて課役を課した
任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた
古墳時代
3世紀中頃 – 7世紀頃
『日本書紀』や『古事記』による文献上の大和時代
推定・比定される天皇在位期間と記紀の記述には不一致があるため、便宜的に垂仁天皇以降を古墳時代とする
代
氏名
在位期間
事績
21代
雄略天皇
ゆうりゃく
允恭天皇の第五皇子
456 – 479
安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日
考古学で存在が確認された最古の天皇
地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大、強力な専制君主として君臨
吉備氏の乱
養蚕の推奨
新羅への出兵
呉(南朝)への遣使(倭王武?)
23代
顕宗天皇
けんぞう
履中天皇の孫
485 – 487
顕宗天皇元年1月1日 – 同3年4月25日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に地方に逃れる
24代
仁賢天皇
にんけん
履中天皇の孫
顕宗天皇の同母兄
488 – 498
仁賢天皇元年1月5日 – 同11年8月8日
父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺されると弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に地方に逃れる
25代
武烈天皇
ぶれつ
仁賢天皇の子
488 – 498
仁賢天皇11年12月 – 武烈天皇8年12月8日
大伴金村を大連とする
法令を用いて厳正に訴訟を取り扱った
『日本書紀』では異常性癖(異常行動)が記されている
26代
継体天皇
けいたい
応神天皇の5世の子孫(来孫)
507.3.3 – 531.3.10
継体天皇元年2月4日 – 継体天皇25年2月7日
武烈天皇崩御後、越前国高向から迎えられる
527: 磐井の乱起る
27代
安閑天皇
あんかん
継体天皇の長子
531.2.7 – 535.12.17
継体天皇25年2月7日 – 安閑天皇2年12月17日
66歳にして即位したが、わずか4年で崩御
531: 辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)による2朝並立の説もあり
28代
宣化天皇
せんか
継体天皇の第二子
536.1 – 539.3.15
宣化天皇元年12月 – 宣化天皇4年2月10日
満69歳にして即位
筑紫の官家の整備
大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送る
ca.536: 蘇我稲目を大臣に任命、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる
29代
欽明天皇
きんめい
継体天皇の嫡男
539.12.30 – 571.5.24
宣化天皇4年12月5日 – 欽明天皇32年4月15日
540: 大伴金村が失脚
552: 百済から仏像と経文が伝来(日本への本格的な仏教伝来)
562: 新羅が任那を滅ぼす
30代
敏達天皇
びだつ
欽明天皇の第二皇子
572.4.30 – 585.9.14
敏達天皇元年4月3日 – 敏達天皇14年8月15日
ca.578: 金剛組が宮大工の集団として発足
ca.585: 物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせる
31代
用明天皇
ようめい
欽明天皇の第四皇子
585.10.3 – 587.5.21
敏達天皇14年9月5日 – 用明天皇2年4月9日
崇仏派で仏法を重んじ、王朝において仏教を公認
587: 蘇我馬子・厩戸皇子ら、物部守屋を討滅
32代
崇峻天皇
すしゅん
欽明天皇の第十二皇子
587.9.9 – 592.12.12
用明天皇2年8月2日 – 崇峻天皇5年11月3日
588: 飛鳥寺が建立
591: 任那復興軍を筑紫に派遣
592: 蘇我馬子が東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
飛鳥時代
代
氏名
在位期間
事績
33代
推古天皇
すいこ
欽明天皇の皇女
敏達天皇の異母妹で妃
崇峻天皇の異母姉
(神功皇后を含まない)日本史上最初の女性天皇
593.1.15 – 628.4.15
崇峻天皇5年12月8日 – 推古天皇36年3月7日
593: 甥の厩戸皇子を皇太子・摂政とする
603: 冠位十二階の制定
604: 十七条憲法
607: 小野妹子を隋に派遣
620: 『天皇記』『国記』を編纂
34代
舒明天皇
じょめい
敏達天皇の孫
629.2.2 – 641.11.17
舒明天皇元年1月4日 – 舒明天皇13年10月9日
630: 第一回遣唐使
637: 蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる
35代
皇極天皇
こうぎょく
敏達天皇の曾孫
舒明天皇の皇后
重祚して斉明天皇
642.2.19 – 645.7.12
皇極天皇元年1月15日 – 皇極天皇4年6月14日
643: 蘇我入鹿が山背大兄王を攻め自害させる
645: 乙巳の変・大化の改新
中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ。翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害
日本史上初の天皇の譲位(退位)を行う
36代
孝徳天皇
こうとく
敏達天皇の曾孫
皇極天皇(斉明天皇)の同母弟
645.7.12 – 654.11.24
皇極天皇4年6月14日 – 白雉5年10月10日
645: 史上初めて元号を立て「大化」とする
鍾匱の制
646: 改新の詔
- 公地公民
- 班田収授法
- 国郡里制
37代
斉明天皇
さいめい
敏達天皇の曾孫
舒明天皇の皇后
皇極天皇が重祚
655.2.14 – 661.8.24
斉明天皇元年1月3日 – 斉明天皇7年7月24日
史上初の重祚
659: 阿倍比羅夫が粛慎 (みしはせ)を討つ
–
中大兄皇子称制
なかのおおえのおうじ
舒明天皇の第二皇子
皇極天皇(重祚して斉明天皇)の子
661 – 668.2.20
天智天皇元年 – 天智天皇7年1月3日
663: 白村江の戦い
667.4.17 近江大津宮へ遷都
40代
天武天皇
てんむ
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子
天智天皇の同母弟
673.3.20 – 686.10.1
天武天皇2年2月27日 – 朱鳥元年9月9日
皇親政治
681: 飛鳥浄御原令の編纂を命じる
684: 八色の姓を定める
ca.685: 式年遷宮の制が立てられる(690とも)
奈良時代
代
氏名
在位期間
事績
43代
元明天皇
げんめい
天智天皇第四皇女子
持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉
707.8.18 – 715.10.3
慶雲4年7月17日 – 和銅8年9月2日
708: 和同開珎を鋳造
710: 平城京に遷都
712: 『古事記』完成
713: 『風土記』の編纂と好字令(「諸国郡郷名著好字令」)を詔勅
715: 郷里制が実施
44代
元正天皇
げんしょう
元明天皇の娘
715.10.3 – 724.3.3
霊亀元年9月2日 – 養老8年2月4日
718: 藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める
720: 『日本書紀』が完成
723: 三世一身法が制定
45代
聖武天皇
しょうむ
文武天皇の第一皇子
元正天皇の甥
724.3.3 – 749.8.19
神亀元年2月4日 – 天平感宝元年7月2日
729: 長屋王の変
730: 悲田院・施薬院を創設
737: 天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟相次いで没
740: 藤原広嗣の乱が起る
743: 墾田永年私財法
752.5.30 東大寺大仏の開眼法要
47代
淳仁天皇
じゅんにん
天武天皇の皇子・舎人親王の七男
淡路廃帝
758.9.7 – 764.11.6
天平宝字2年8月1日 – 天平宝字8年10月9日
758: 官職の唐風改称
759:『万葉集』成る
769: 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
平安時代
- 794年 平安京に遷都
- 866年 藤原良房が人臣初の摂政に任じられる
- 887年 藤原基経が関白に任じられる
- 1087年 堀河天皇に譲位した白河上皇が院政を始める
摂関政治(藤原頼道まで)
年代 | 天皇 | 摂政 | 関白 |
---|---|---|---|
858年 | 清和 | ||
866年 | 応天門の変 良房(外祖父) | ||
876年 | 陽成 | 基経(外伯父) | |
887年 | 宇多 | 阿衡事件 基経(岳父) | |
891年 | 寛平の治 | ||
897年 | 醍醐 延喜の治 | ||
930年 | 朱雀 | 忠平(外伯父) | |
941年 | 忠平(外伯父) | ||
946年 | 村上 | 忠平(外伯父) | |
967年 | 冷泉 | 実頼(大伯父) | |
969年 | 円融 | 実頼(大伯父) | |
970年 | 伊尹(外伯父) | ||
973年 | 兼通(外伯父) | ||
977年 | 頼忠 | ||
984年 | 花山 | 頼忠(岳父) | |
986年 | 一条 | 兼家(外祖父) | 寛和の変 |
990年 | 兼家(外祖父) | ||
道隆(外伯父) | |||
道隆(外伯父) | |||
993年 | 道隆(外伯父) | ||
995年 | 道兼(外伯父) | ||
996年 | 長徳の変 | ||
1011年 | 三条 | ー | ー |
1016年 | 後一条 | 道長(外祖父) | |
1017年 | 頼通(外叔父) | ||
1020年 | 頼通(外叔父) | ||
1036年 | 後朱雀 | 頼通(外叔父) | |
1045年 | 後冷泉 | 頼通(外叔父) |
院政(承久の乱まで)
年代 | 天皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 | 上皇 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1087年 | 堀河 | 白河 | ||||||||
1107年 | 鳥羽 | |||||||||
1123年 | 崇徳 | 鳥羽 | ||||||||
1129年 | 没 | |||||||||
1142年 | 近衛 | 崇徳 | ||||||||
1155年 | 後白河 | |||||||||
1156年 | 没 | 保元の乱 | ||||||||
1158年 | 二条 | 後白河 | ||||||||
1165年 | 六条 | 二条 没 | ||||||||
1168年 | 高倉 | 六条 | ||||||||
1176年 | 没 | |||||||||
1179年 | 治承三年の政変 | |||||||||
1180年 | 安徳 | 高倉 | ||||||||
1181年 | 院政を復活 | 没 | ||||||||
1183年 | 後鳥羽 | |||||||||
1192年 | 没 | |||||||||
1198年 | 土御門 | 後鳥羽 | ||||||||
1210年 | 順徳 | 土御門 | ||||||||
1221年 | 仲恭 | 承久の乱 隠岐に配流 | 承久の乱 土佐に配流 |
代
氏名
在位期間
事績
50代
桓武天皇
かんむ
光仁天皇の第一皇子
781.4.30 – 806.4.9
天応元年4月3日 – 延暦25年3月17日
782: 氷上川継の乱
784: 長岡京を造営
792: 健児の制
794: 平安京へ改めて遷都
797: 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ずる
797: 勘解由使の設置
805: 藤原緒嗣と菅野真道による天徳政相論
51代
平城天皇
へいぜい
桓武天皇の第一皇子
806.4.9 – 809.5.18
延暦25年3月17日 – 大同4年4月1日
806: 六道観察使を初めて設置
807:『古語拾遺』成る
807: 伊予親王の変
52代
嵯峨天皇
さが
桓武天皇の第二皇子
平城天皇の同母弟
809.5.18 – 823.5.29
大同4年4月1日 – 弘仁14年4月16日
810: 薬子の変(平城太上天皇の変)
814: 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる(嵯峨源氏、賜姓源氏の始まり)
53代
淳和天皇
じゅんな
桓武天皇の第七皇子
嵯峨天皇の異母弟
823.5.29 – 833.3.22
弘仁14年4月16日 – 天長10年2月28日
825: 高棟王に平姓を賜う
831: 滋野貞主が日本最古の類書(百科事典)の『秘府略』1000巻を編纂する
833: 清原夏野ら『令義解』を撰集
54代
仁明天皇
にんみょう
嵯峨天皇の第二皇子
833.3.22 – 850.5.4
天長10年2月28日 – 嘉祥3年3月19日
838: 小野篁を隠岐国に配流
838: 承和の遣唐使(事実上の最後の遣唐使)
842: 承和の変
55代
文徳天皇
もんとく
仁明天皇の第一皇子
850.5.4 – 858.10.7
嘉祥3年3月19日 – 天安2年8月27日
ca.850: この頃から班田制の崩壊はじまる
850: 橘嘉智子没、嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)、学館院を設立
56代
清和天皇
せいわ
文徳天皇の第四皇子
858.10.7 – 876.12.18
天安2年8月27日 – 貞観18年11月29日
858: 藤原良房を臣下としては初の摂政に任じる(摂関政治の初め)
866: 応天門の変
59代
宇多天皇
うだ
光孝天皇の第七皇子
887.9.17 – 897.8.4
仁和3年8月26日 – 寛平9年7月3日
887: 阿衡事件(阿衡の紛議)
藤原基経を関白に正式任命
891: 寛平の治
894: 遣唐使派遣が停止
60代
醍醐天皇
だいご
宇多天皇の皇子
897.8.4 – 930.10.16
寛平9年7月3日 – 延長8年9月22日
897: 延喜の治
901: 昌泰の変(菅原道真を大宰府へ左遷)
902: 延喜の荘園整理令
905:『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じる
66代
一条天皇
いちじょう
円融天皇の第1皇子
986.8.1 – 1011.7.16
寛和2年6月23日 – 寛弘8年6月13日
皇后定子清少納言が仕える
中宮彰子に紫式部・和泉式部が仕える
995: 長徳の変
68代
後一条天皇
ごいちじょう
一条天皇の第二皇子
1016.3.10 – 1036.5.15
長和5年1月29日 – 長元9年4月17日
糖尿病により崩御
1017: 三条天皇の第一皇子敦明親王が藤原道長に無言の圧迫を掛けられ、自ら東宮を辞退
→冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれる
70代
後冷泉天皇
ごれいぜい
後朱雀天皇の第一皇子
1045.2.5 – 1068.5.22
寛徳2年1月16日 – 治暦4年4月19日
1045: 寛徳の荘園整理令
1051 – 1062 前九年の役
71代
後三条天皇
ごさんじょう
後朱雀天皇の第二皇子
1068.5.22 – 1073.1.18
治暦4年4月19日 – 延久4年12月8日
宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇として即位
1069: 延久の荘園整理令、記録荘園券契所が設置
延久の善政
1070: 延久蝦夷合戦
73代
堀河天皇
ほりかわ
白河天皇の第三皇子
1087.1.3 – 1107.8.9
応徳3年11月26日 – 嘉承2年7月19日
白河上皇による院政の始まり
「末代の賢王」(『続古事談』)と評される
77代
後白河天皇
ごしらかわ
鳥羽天皇の第四皇子
1155.8.23 – 1158.9.5
久寿2年7月24日 – 保元3年8月11日
1156.5: 鳥羽法皇が崩御
1156.7: 保元の乱
→崇徳院が讃岐に配流
78代
二条天皇
にじょう
後白河天皇の第一皇子
1158.9.5 – 1165.8.3
保元3年8月11日 – 永万元年6月25日
「仏と仏との評定」により、後白河天皇からの譲位をうけ践祚(美福門院・信西)
1159: 平治の乱
79代
六条天皇
ろくじょう
後白河天皇の孫
二条天皇の皇子
1165.8.3 – 1168.4.9
永万元年6月25日 – 仁安3年2月19日
数え2歳(満7か月と11日)でに践祚(歴代最年少での皇位への即位)
81代
安徳天皇
あんとく
高倉天皇の第一皇子
1180.3.18 – 1185.4.25
治承4年2月21日 – 寿永4年3月24日
数え年3歳(満1歳2か月)で践祚
1180: 福原行幸
1183: 源義仲の入京、平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ち
1183.9.8 三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚
1185.4.25 壇ノ浦で入水し崩御
鎌倉時代
- 1221年 承久の乱
代
氏名
在位期間
事績
82代
後鳥羽天皇
ごとば
高倉天皇の第四皇子
1183.9.8 – 1198.2.18
寿永2年8月20日 – 建久9年1月11日
正史上初めて同時に2人の天皇が擁立される(- 1185.4.25)
1183: 寿永二年十月宣旨を源頼朝に下す(頼朝の東国支配権を承認する)
1185: 文治の勅許を源頼朝に与える(頼朝が守護・地頭を設置することを許す)
1192: 源頼朝を征夷大将軍に任ずる
1196: 建久七年の政変
84代
順徳天皇
じゅんとく
後鳥羽天皇の皇子
1210.12.12 – 1221.5.13
承元4年11月25日 – 承久3年4月20日
1219: 鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、皇族将軍の上奏を後鳥羽上皇が拒否
1221:『禁秘抄』を著す
85代
仲恭天皇
ちゅうきょう
順徳天皇の第四皇子
九条廃帝
1221.5.13 – 1221.7.29
承久3年4月20日 – 7月9日
1221: 承久の乱
→後鳥羽上皇、隠岐に配流
→土御門上皇、土佐(後に阿波)に配流
→順徳上皇、佐渡に配流
86代
後堀河天皇
ごほりかわ
高倉天皇の孫
1221.7.29 – 1232.11.17
承久3年7月9日 – 貞永元年10月4日
10歳で践祚
1226: 将軍宣下により藤原頼経が鎌倉幕府の4代将軍となる
1229: 安貞二年の政変
89代
後深草天皇
ごふかくさ
後嵯峨天皇の皇子
北朝(持明院統)の祖
1246.2.16 – 1260.1.9
寛元4年1月29日 – 正元2年11月26日
1246: 宮騒動
1252: 異母兄の宗尊親王が第6代将軍として鎌倉に迎え入れられる(親王将軍の成立)
90代
亀山天皇
かめやま
後嵯峨天皇の皇子
南朝(大覚寺統)の祖
1260.1.9 – 1274.3.6
正元元年11月26日 – 文永11年1月26日
1272: 後嵯峨法皇が崩御、鎌倉幕府の内諾を得て、亀山天皇親政が始まる(両統迭立の起り)
96代
南1
後醍醐天皇
ごだいご
後宇多天皇の第二皇子
1318.3.29 – 1339.9.18
文保2年2月26日 – 延元4年8月15日
1324: 正中の変
1331: 元弘の乱(元弘の変)→隠岐に配流
1333: 建武の新政
1335: 中先代の乱
1337: 吉野へ逃れて朝廷を開く(南朝の成立)
南北朝時代
年代 | 南朝 | 北朝 | 室町幕府 |
---|---|---|---|
1318年 | 後醍醐(96)① | ||
1331年 | 元弘の乱 | 光厳❶ | |
1333年 | 建武の新政 | ||
1336年 | 光明❷ | ||
1338年 | 尊氏1⃣ | ||
1339年 | 後村上(97)② | ||
1348年 | 崇光❸ | ||
1350年 | 観応の擾乱 | ||
1351年 | 正平一統 | ||
1352年 | 後光厳❹ | ||
1359年 | 義詮2⃣ | ||
1368年 | 長慶(98)③ | ||
1369年 | 義満3⃣ | ||
1371年 | 後円融❺ | ||
1382年 | 後小松❻ | ||
1383年 | 後亀山(99)④ | ||
1392年 | 南北朝合一 | 後小松(100) |
南朝
代
氏名
在位期間
事績
97代
南2
後村上天皇
ごむらかみ
後醍醐天皇の七男
1339.9.18 – 1368.3.29
延元4年8月15日 – 正平23年3月11日
1350: 観応の擾乱、足利直義が南朝に降伏
1351: 次いで、足利尊氏も南朝に降伏し正平一統が成立
尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与える
北朝崇光天皇を廃位、北朝が一次的に消滅
三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収
99代
南4
後亀山天皇
ごかめやま
後村上天皇の子
長慶天皇の弟
1383.冬 – 1392.11.19
弘和3年冬 – 元中9年閏10月5日
1392: 三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一を実現(明徳の和約)
北朝
代
氏名
在位期間
事績
北2
光明天皇
こうみょう
光厳天皇の弟
1336.9.20 – 1348.11.18
建武3年8月15日 – 貞和4年10月27日
足利尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により即位
1338: 足利尊氏を征夷大将軍に任命し、室町幕府が成立
北3
崇光天皇
すこう
光厳天皇の第一皇子
1348.11.18 – 1351.11.26
貞和4年10月27日 – 観応3年11月7日
1350: 観応の擾乱、足利直義が南朝に降伏
1351: 次いで、足利尊氏も南朝に降伏し正平一統が成立、北朝の一次的消滅により廃位
1352: 光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁が南朝に拉致される
北5
後円融天皇
ごえんゆう
光厳天皇の第一皇子
1371.4.9 – 1382.5.24
応安4年3月23日 – 永徳2年4月11日
管領細川頼之の支持で即位
1375:『新後拾遺和歌集』を義満の執奏により下命
1379: 興福寺内紛を巡る春日神木の入洛(康暦の強訴)
室町時代
- 1392年11月19日 南北朝合一(明徳の和約)
代
氏名
在位期間
事績
北6
↓
100代
後小松天皇
ごこまつ
後円融天皇の子
1382.5.24 – 1392.11.19
永徳2年4月11日 – 明徳3年閏10月5日
1392.11.19 – 1412.10.5
明徳3年閏10月5日 – 応永19年8月29日
皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始→これは、南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、以後、南朝方の武装蜂起が頻発する
102代
後花園天皇
ごはなぞの
称光天皇の三従兄弟(曾祖父母の兄弟姉妹の曽孫)
1428.9.7 – 1464.8.21
正長元年7月28日 – 寛正5年7月19日
1439:『新続古今和歌集』が成立
1438年永享の乱、1441年嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給
1443: 禁闕の変、後南朝が御所に乱入、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れる
1457-1458: 長禄の変、後南朝の行宮を襲い、神璽を嘉吉の乱により滅亡した赤松家の遺臣が奪い返す
1462: 皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与える
103代
後土御門天皇
ごつちみかど
後花園天皇の子
1464.8.21 – 1500.10.21
寛正5年7月19日 – 明応9年9月29日
1467 – 1477: 応仁・文明の乱起る
政権の正統性を得ようとした足利将軍家に譲位を5回拒否される
戦国時代
- 1467年 – 1477年:応仁・文明の乱
代
氏名
在位期間
事績
106代
正親町天皇
おおぎまち
後奈良天皇の第一皇子
1557.11.17 – 1586.12.17
弘治3年10月27日 – 天正14年11月7日
1570年の朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年の石山本願寺と織田信長の戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命による
安土桃山時代(織豊時代)
- 1573年:足利義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡
代
氏名
在位期間
事績
107代
後陽成天皇
ごようぜい
正親町天皇の孫
1586.12.17 – 1611.5.9
天正14年11月7日 – 慶長16年3月27日
1588.1: 室町将軍・足利義昭が征夷大将軍職を朝廷に返上、義昭に准三宮の待遇を与える
1588.4: 豊臣秀吉の招きにより、聚楽第行幸
1609: 猪熊事件
江戸時代
代
氏名
在位期間
事績
108代
後水尾天皇
ごみずのお
後陽成天皇の第三皇子
1611年5月9日 – 1629年12月22
慶長16年3月27日 – 寛永6年11月8日
1619: およつ御寮人事件(万里小路事件)
1627: 紫衣事件
1629: 金杯事件(家光乳母が無位無官でありながら拝謁し、「春日局」の名号及び天酌御盃を賜る)
109代
明正天皇
めいしょう
後水尾天皇の第二皇女
1629.12.22 – 1643.11.14
寛永6年11月8日 – 寛永20年10月3日
5歳で即位
母は徳川秀忠の娘で、徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇
111代
後西天皇
ごさい
後水尾天皇の第八皇子
明正天皇の異母弟
1655.1.5 – 1663.3.5
承応3年11月28日 – 寛文3年1月26日
実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったため、ワンポイントリリーフとして即位
112代
霊元天皇
れいげん
後水尾天皇の第十九皇子
後西天皇の弟
1663.3.5 – 1687.5.2
寛文3年1月26日 – 貞享4年3月21日
禁闕騒動(皇継をめぐる幕府・後水尾院・東福門院と天皇の争い)
1681: 小倉事件
1683: 300年ぶりの立太子礼を経て朝仁親王(五宮)を皇太子とする
113代
東山天皇
ひがしやま
霊元天皇の第四皇子
1687.5.6 – 1709.7.27
貞享4年3月25日 – 宝永6年6月21日
父から譲位されて践祚、霊元上皇の院政はじまる
長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活
1701: 松之大廊下の刃傷事件(江戸へ派遣した勅使の柳原資廉・高野保春の接待をめぐり、接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかる)
御料(皇室領)が1万石から3万石となり、朝廷の財政面が著しく好転する
114代
中御門天皇
なかみかど
東山天皇の第五皇子
1709.7.27 – 1735.4.13
宝永6年6月21日 – 享保20年3月21日
1729: 交趾(ベトナム)広南産の象の「拝謁」を霊元上皇とともに受ける(広南従四位白象)
117代
後桜町天皇
ごさくらまち
桜町天皇の嫡出腹の皇女
桃園天皇の異母姉
1747.6.9 – 1762.8.31
延享4年5月2日 – 宝暦12年7月12日
太上天皇として後の尊号一件(1789年-)を収め、国母と呼ばれる
118代
後桃園天皇
ごももぞの
桃園天皇の第一皇子
後桜町天皇の甥
1771.1.9 – 1779.12.16
明和7年11月24日 – 安永8年11月9日
1773 – 1774: 安永の御所騒動(口向役人の不正が江戸幕府によって摘発)
119代
光格天皇
こうかく
東山天皇の曾孫
桃園天皇・後桜町天皇の再従姉弟
1780.1.1 – 1817.5.7
安永8年11月25日 – 文化14年3月22日
1789 – 1793: 尊号一件(父・典仁親王に太上天皇号を贈ろうとして幕府の反対に遇い断念)
一世一元の制導入以前に譲位した最後の天皇
120代
仁孝天皇
にんこう
光格天皇の第4皇子
1817.5.7 – 1846.2.21
文化14年3月22日 – 弘化3年1月26日
崩御後に実現する皇族や公家の子弟のための教育機関の設置に尽力→「学習院(京都学習院)」
121代
孝明天皇
こうめい
光格天皇の第4皇子
1846.3.10 – 1867.1.30
弘化3年2月13日 – 慶応2年12月25日
1847: 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
1858: 日米修好通商条約の調印勅許について衆議するも「定見なし」
1858.4.25: 廷臣八十八卿列参事件
1858.9.14: 戊午の密勅
1862.3.11: 皇妹和宮親子内親王の降嫁
1862.5.14: 公武合体推進のため島津久光が兵を率いて入京 朝廷、幕府に三事策を求める
1863.4.21: 徳川家茂上洛
1863.6.6: 攘夷実行の勅命
1863.9.29: 天誅組の変
1863.9.30: 八月十八日の政変(七卿落ち)
1863.11.22: 生野の変
1864.2.7-4.14: 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)
1864.5.2: 天狗党の乱
1864.7.8: 池田屋事件
1864.8.20: 禁門の変(蛤御門の変)
1866: 廷臣二十二卿列参事件
近代
代
氏名
在位期間
事績
122代
明治天皇
めいじ
孝明天皇の第二皇子
1867.2.13 – 1912.7.30
慶応3年1月9日 – 明治45年7月30日
1867.6.6: 四侯会議
1867.11.9: 大政奉還
1869.3.28: 東京奠都
1869.7.25: 版籍奉還
1871.8.29: 廃藩置県
1877: 西南戦争
1881: 国会開設の勅諭
1889.2.11: 大日本帝国憲法を公布
1890.11.29: 開会の第1回帝国議会
1894-95: 日清戦争
1904-05: 日露戦争
1910: 韓国併合
123代
大正天皇
たいしょう
明治天皇の第三皇子
1912.7.30 – 1926.12.25
明治45年7月30日 – 大正15年12月25日
1913: 大正政変
1914.8.23: 第一次世界大戦に参戦(ドイツに宣戦布告)
1918-22: シベリア出兵
1920.1: 国際連盟が成立
1920-21: 宮中某重大事件
1921.11.16 皇太子裕仁親王の摂政就任
1923.9.1: 関東大震災
1923.12.27 虎ノ門事件
124代
昭和天皇
しょうわ
大正天皇の第1男子
1926.12.25 – 1989.1.7
大正15年12月25日 – 昭和64年1月7日
1927.2.7 北原二等卒直訴事件
1929.10-1931: 昭和恐慌(世界恐慌)
1931.9.18: 満洲事変
1932.1.8 桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)
1932: 五・一五事件
1933.3: 国際連盟脱退
1936: 二・二六事件
1937.11.30 日中戦争起る
1939.9.1 第二次世界大戦勃発
1941.12.8 太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃)
1945.8.15: ポツダム宣言受諾(玉音放送)
1946.1.1: 天皇人間宣言
1946.2.19-1954.8 昭和天皇の戦後巡幸
1947.5.3: 日本国憲法施行
1952.4.28 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効
1964.10: 東京五輪開会式で開会宣言を行う
1971.6.17: 沖縄返還協定
1972.2: 札幌五輪開会式で開会宣言を行う
125代
上皇(平成)
へいせい
大正天皇の第1男子
1989.1.7 – 2019.4.30
昭和64年1月7日 – 平成31年4月30日
1992.10: 中華人民共和国政府の招待で同国を訪問
1998年長野オリンピックの開会式で開会宣言を行う
2009.12.15 習近平中華人民共和国副主席と会見(天皇特例会見、1ヶ月ルール)
2011.3.16 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、ビデオメッセージを放送
2016.8.8 『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明(生前退位(譲位))
126代
今上天皇(令和)
れいわ
昭和天皇の第1皇男子
2019.5.1 – 在位中
令和元年5月1日 – 在位中
59歳(数え60歳)での即位は、光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目となる高齢での即位
2021.7.23 2020年東京オリンピックの開会式で開会宣言を行う
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