- オランダ首相について
- 大臣会議議長(Voorzitters van de ministerraad)(1815年-1945年)
- ウィレム2世 Willem II(1840-1849)
- ゲリット・スヒンメルペニンク
Gerrit, Count Schimmelpenninck - ジェイコブ・デ・ケンペナール
Jacob de Kempenaer - ウィレム3世 Willem III(1849-1890)
- ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke - フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall - ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン
Justinus van der Brugghen - ヤン・ジェイコブ・ロシュセン
Jan Jacob Rochussen - フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall - ヤコブ・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Jacob van Zuylen van Nijevelt - シェルト・ファン・ヘームストラ
Schelto van Heemstra - ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke - イサーク・ディグナス・フランセン・ファン・デ・プッテ
Isaäc Dignus Fransen van de Putte - ユリウス・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Julius van Zuylen van Nijevelt - ペーター・フィリップ・ファン・ボッセ
Pieter Philip van Bosse - ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke - ゲリット・デ・フルース
Gerrit de Vries - ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk - ヤン・カッペイネ・ファン・デ・コッペロ
Jan Kappeyne van de Coppello - テオ・ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク
Theo van Lynden van Sandenburg - ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk - アイネイアス・マッカイ
Aeneas Mackay Jr. - ウィルヘルミナ Wilhelmina(1890-1948)
- ハイスベルト・ティーンホーフェン
Gijsbert van Tienhoven - ジョアン・ロエル
Joan Röell - ニコラス・ピールソン
Nicolaas Pierson - アブラハム・カイペル
Abraham Kuyper - テオ・デ・メーステル
Theo de Meester - テオ・ヘームスケルク
Theo Heemskerk - ピーター・コルト・ファン・デル・リンデン
Pieter Cort van der Linden - チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck - ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn - ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer - チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck - ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn - ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer - ペーター・シュールド・ヘルブランディー
Pieter Sjoerds Gerbrandy
- 首相(Minister-president van Nederland)(1945年-現在)
- ウィレム・スヘルメルホルン
Willem Schermerhorn - ルイス・ベール
Louis Beel - ユリアナ Juliana(1948-1980)
- ウィレム・ドレース
Willem Drees - ルイス・ベール
Louis Beel - ヤン・デ・クヴァイ
Jan de Quay - ヴィクトル・マリネン
Victor Marijnen - ヨー・カルス
Jo Cals - イェレ・ゼイルストラ
Jelle Zijlstra - ピート・デ・ヨング
Piet de Jong - バレント・ビースフーヴェル
Barend Biesheuvel - ヨープ・デン・アイル
Joop den Uyl - ドリース・ファン・アフト
Dries van Agt - ベアトリクス Beatrix(1980-2013)
- ルード・ルベルス
Ruud Lubbers - ウィム・コック
Wim Kok - ヤン・ペーター・バルケネンデ
Jan Peter Balkenende - マルク・ルッテ
Mark Rutte - ウィレム=アレクサンダー Willem-Alexander(2013-)
- ディック・スホーフ
Dick Schoof
- ウィレム・スヘルメルホルン
- 参考リンク
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オランダ首相について
オランダ首相は、オランダ政府の行政府の長である。オランダ王国の君主は国王で、同時に君主は法定の政府首長で あるが、事実上首相は閣僚評議会の議長としてこの役割を担っており、その政策を閣僚の他のメンバーと調整する。政府首脳としての役割において、首相は欧州理事会においてオランダの代表も務めている。
1848年にオランダ憲法が改正され、閣僚は国会に対して責任を負い、閣僚のリーダーである国王に対しては責任を負わなくなった。 1901年までは、閣僚評議会の議長は正式に閣僚間で交代していた。 1901年から1945年までの間、閣僚評議会議長の職は正式なローテーション制であり、任期は4年とされていた。
1983年の憲法見直しを受けて、オランダ憲法で初めて首相の地位が正式に定められた。オランダ憲法では、政府は国王と大臣によって構成され、首相が閣僚評議会の議長を務め(第45条)、王令によって任命され(第43条)、彼ら自身の任命勅令と他の閣僚の任命勅令には首相が連署するものとする(第48条)。閣僚評議会に国王は出席しなくなった。
以下の首相リストは、1848年のオランダ憲法改正により、議会制民主主義が導入された時点から始まるものである。
大臣会議議長(Voorzitters van de ministerraad)(1815年-1945年)
ウィレム2世 Willem II(1840-1849)
代
氏名
期
在任期間
事績
1
ゲリット・スヒンメルペニンク
Gerrit, Count Schimmelpenninck
リベラル派
1
1848.3.25
–
5.17
スヒンメルペニンク内閣(保守派)
1948.11.3 改正憲法公布、責任内閣制始まる
自由主義勢力の全盛時代が始まる
英国モデルに従った憲法制定の提案は、国王による上院の解散が不可能であることを暗示していたが、他の閣僚によって拒否されたため辞任
ウィレム3世 Willem III(1849-1890)
代
氏名
期
在任期間
事績
4
フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall
リベラル派
4
1853.4.19
–
1856.7.1
ファン・ハル=ドンカー・クルティウス内閣(保守派)
1854 カトリックに司教区制の導入を認め、カトリックの完全復権なる
1856.4 ウィレム3世により、。クリミア戦争で外務大臣としてオランダの中立を守ることに成功した行為に対する感謝の印として男爵位を授けられる
7
フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall
リベラル派
7
1860.2.23
–
1861.3.14
ファン・ハル=ファン・ヘームストラ内閣(リベラル派/保守派)
1860 ダウエス=デッケル(筆名ムルタトゥーリ)が『マックス・ハーフェラール』を発表
1860 東インドで奴隷制廃止
1861.1 パンカ事件の影響によりロシュセン植民地相が辞任
健康上の理由からオランダ東インド総督への任命を辞退
9
シェルト・ファン・ヘームストラ
Schelto van Heemstra
リベラル派
9
1861.11.10
–
1862.2.1
ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト==ファン・ヘームストラ内閣(リベラル派/保守派)
1861.12 国家予算案が議会で否決
→1862.2.1に正式に辞任
10
ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke
リベラル派
10
1862.2.1
–
1866.2.10
第2次トルベッケ内閣(リベラル派)
1862 コショウの強制栽培制度廃止
1862 ベッツ関税法(保護関税の大幅引き下げ、河川通航税の廃止)
1862 津田真道と西周がライデン大学でシモン・フィッセリング教授に法学を学ぶ(-65)
1863.5 中等教育法(HBS: ホゲレバーガースクール)
1863.7.3 860年鉄道法に従って建設された鉄道の運営に関する法律
1863 西インドで奴隷制廃止
1864 ニューウェ・ウォーターウェグの開削が始まる(1872:試運転開始)
1865 藍、茶、ニッケイの強制栽培制度廃止
1865 地方税改革
1865.6.1 健康診断法
1865 -1876 北海運河の開削
1866 タバコの強制栽培制度廃止
オランダ領東インドにおける刑法に関する紛争の後に辞任
12
ユリウス・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Julius van Zuylen van Nijevelt
保守派
12
1866.6.1
–
1868.6.4
少数内閣は、1866年と1868年の2回解散された議会と対立、この「紛争の時代」はリベラル派の勝利で終わる
13
ペーター・フィリップ・ファン・ボッセ
Pieter Philip van Bosse
リベラル派
13
1868.6.4
–
1871.1.4
ファン・ボッセ=フォック内閣(リベラル派)
トルベッケが設立した内閣で大蔵大臣として新たな任期を開始したが、トルベッケはそのまま内閣を率いることはなく、ファン・ボッセ自身が閣僚評議会議長として内閣を率い、後に首相と呼ばれるようになる
1869 印刷文書や新聞広告の印紙税を廃止する法律を導入(新聞切手の廃止)
1870 死刑制度廃止、軍隊のみで存続
1870 はがきの導入を許可する1850年の郵便法の改正
様々な理由で閣僚辞任が相次ぎ、ファン・ボッセも首相を辞任
14
ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke
リベラル派
14
1871.1.4
–
1872.6.4
第3次トルベッケ内閣(リベラル派)
1871 キリスト教改革派十字架教会の合法化
1871 オランダ労働者総同盟が設立
1871.4.20 アレッタ・ヤーコプスが初の女子大学生としてフローニンゲン大学に入学
1872.3 イギリスとの間で植民地分割を確認するスマトラ条約を締結(エル・ミナ要塞をイギリスに譲渡してアフリカの完全撤退とアチェ支配承認を取引)
16
ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk
保守派
16
1874.8.27
–
1877.11.3
ヘームスケルク=ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク内閣(保守派)
第26代テオ・ヘームスケルク首相の父
1875 金本位制を導入
1876.6 アムステルダムで改革派によりパトリモニウムという労働組合が作られる
17
ヤン・カッペイネ・ファン・デ・コッペロ
Jan Kappeyne van de Coppello
リベラル派
17
1877.11.3
–
1879.8.20
カッペイネ・ファン・デ・コッペロ内閣(リベラル派)
1878 初等教育法(地方自治体の教育に対する権限を制限)→学校闘争の本格化
1879.1.7 ウィレム3世がドイツ貴族の娘エンマと再婚
1879.4 ユトレヒトでオランダ初の全国政党として反革命党(ARP)が結成
18
テオ・ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク
Theo van Lynden van Sandenburg
反革命派(Antirevolutionary)
18
1879.8.20
–
1883.4.23
ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク内閣(リベラル派/保守派)
1880 改革派によりアムステルダム自由大学(オランダ初の私立大学)が設立
1881 フェニミストらが普通選挙権期成同盟を設立
1882.3 オランダ初となる全国的な社会主義政党である社会民主同盟(SDB)が結成
19
ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk
保守派
19
1883.4.23
–
1888.4.20
ヤン・ヘームスケルク内閣(リベラル派/保守派)
第26代テオ・ヘームスケルク首相の父
1885 自由連盟(LU)が結成
1885.7.13 アムステルダム国立博物館が開館
1886 改革派教会が2つに分裂「異議申し立ての教会分裂」、オランダ(正統)改革派教会が設立
1887 憲法改正(男性参政権の拡大と女性参政権の明示的排除)
20
アイネイアス・マッカイ
Aeneas Mackay Jr.
反革命党(ARP)
20
1888.4.20
–
1891.8.21
オランダ初の宗派連立内閣が成立
1888.5.1 ドメラ・ニーウェンハイスが初の社会主義者として第二院議員となる
1889 下等教育法を改正、労働法の制定
1890.11.23 ウィルヘルミナ女王即位(王太后のエマが摂政に立つ、ルクセンブルクは女系相続を認めていなかったため、オラニェ家(オラニエ家)はルクセンブルク大侯位を失う)
c.a. 1890-1910 オランダの産業革命
1890 王立オランダ石油会社(後のロイヤル・ダッチ・シェル)が設立
1890.7.29 画家ファン・ゴッホが、パリ近郊オーヴェール・オワーズで自殺
1891 サトウキビの強制栽培制度廃止
カトリック系最初の労働組合が結成
1891.5.15 フィリップス社が創業
徴兵制をめぐる内紛により政権崩壊
ウィルヘルミナ Wilhelmina(1890-1948)
代
氏名
期
在任期間
事績
21
ハイスベルト・ティーンホーフェン
Gijsbert van Tienhoven
リベラル派
21
1891.8.21
–
1894.5.9
ファン・ティーンホーフェン内閣(リベラル派)
外務大臣を兼任
財務相ピールソンによる税制改革
1893 国際私法に関する国際会議を主催
1894 内務大臣ヨハネス・タク・ファン・ポールトヴリートが男子普通選挙を導入する法案を提出、ティーンホーフェンはこの法案を支持したが下院で否決、内閣崩壊の原因となる
22
ジョアン・ロエル
Joan Röell
リベラル派
22
1894.5.9
–
1897.7.27
ロエル内閣(リベラル派)
外務大臣を兼任
1894.8.26 社会民主労働者党(SDAP)が結成
1895 メンゲルベルクがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となる
1896 選挙権を大幅に拡大、有権者数を2倍にする
23
ニコラス・ピールソン
Nicolaas Pierson
23
1897.7.27
–
1901.8.1
ピールソン内閣(リベラル派)
「社会正義内閣」
1899 元植民地官僚デーフェンテルが『名誉の負債』を発表
1899.8.29 ロシア帝国皇帝ニコライ2世の提唱で第1回万国平和会議(ハーグ平和会議)
1899.10.11 – 1902.5.31 第2次ボーア戦争→ボーア人指導者のオランダ亡命を認める
1900 初等教育の義務化
1901 労働災害保険法の制定
1901 児童法
1901.3 自由民主連合(VDB)が結成
24
アブラハム・カイペル
Abraham Kuyper
反革命党(ARP)
24
1901.8.1
–
1905.8.17
「外国旅行大臣」
1901.9 植民地に対する「倫理政策」を発表
ハーグに常設仲裁裁判所が置かれる
1903 アムステルダムの港湾労働者による全面ストライキ→鉄道ストライキ(初のゼネスト)につながり、一時的に成功を収める
1904.10.15 ローマカトリック全国有権者同盟が結成
1905 公立学校と宗派の私立学校を完全対等資格とする教育改革
1905.4 ストライキ禁止法
25
テオ・デ・メーステル
Theo de Meester
25
1905.8.17
–
1908.2.12
デ・メーステル内閣(リベラル派)
「磁器内閣」
1907年国防予算案の上院否決を受けて1906年12月に初めて辞任したがこの辞任はウィルヘルミナ女王によって拒否、第二院が再び1908年国防予算案を否決したため、1907年12月に政府は崩壊、政府は1908年2月12日まで委任政府として存続
1907.6.15 – 10.18 ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第2回万国平和会議(ハーグ平和会議)
26
テオ・ヘームスケルク
Theo Heemskerk
反革命党(ARP)
26
1908.2.12
–
1913.8.29
第16代・19代ヤン・ヘームスケルク首相の息子
1908.7 キリスト教歴史同盟(CHU)が結成
1911 予防接種法
1912 改正救貧法
1913 タルマ農・商・工業相が「労働協議会」を設立
27
ピーター・コルト・ファン・デル・リンデン
Pieter Cort van der Linden
リベラル派
27
1913.8.29
–
1918.9.9
コルト・ファン・デル・リンデン内閣(リベラル派)
党派を超えた立場から誠実な仲介者として行動することを表明
1914.7.28 – 1918.11.11 第一次世界大戦→オランダは厳正中立を宣言
1916 コーヒーの強制栽培制度廃止
1916.1 ザイデル海(ゾイデル海)の大洪水→締め切り大堤防(アフシュライトダイク)工事の契機
1917 ジャガイモ飢饉
1917 モンドリアンを中心にデ・ステイルの芸術運動が始まる
1917年のパシフィケーション:左派の自由主義者と社会主義者と右派の一部のキリスト教政党との間の政治協定
1917.12 憲法改正(宗派の宗教教育への公的助成金、男子普通選挙・完全比例代表制の導入)
→学校闘争の終焉
1918 女性議員第1号誕生
1918.4.24 改革政党(保守カルヴァン主義政党)(SGP)が設立
1918.11 ホラント共産党(CPH)が設立
→柱状化社会・多極共存型社会の形成(❶カトリック、❷改革派(カルヴァン派)、❸自由主義勢力、❹社会(民主)主義勢力)
28
チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck
ローマ=カトリック国民党(RKSP)
28
1918.9.9
–
1922.9.18
第1次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣(RKSP/ARP/CHU)
1918.11.9-18 社会民主労働者党(SDAP)の党首ピーテル・イェレス・トロエルストラが ロシア革命とドイツ革命に触発されて、労働者階級の間で社会主義革命を呼びかけたが失敗
1918.11.10 前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命
1919 普通選挙(女性参政権)
労働協議会を高等労働協議会へ改組、労働法改正(週45時間労働導入、14歳以下の児童の就労禁止
ラジオ放送開始
1919.10.7 KLMオランダ航空が設立
1920.1 国際連盟に加盟
1921.4.16 自由同盟(LSP)が設立(1924に「自由国家党」)
29
1922.9.18
–
1925.8.4
第2次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣(RKSP/ARP/CHU)
1922 女性参政権が改正憲法に記載される
1923 カトリックによりナイメーヘン大学(ラドバウド大学)が設立
1923.10.26 艦隊法が第二院で否決
→艦隊法の危機
1925.4 金本位制に復帰
29
ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn
反革命党(ARP)
30
ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer
キリスト教歴史同盟
(CHU)
31
1926.3.8
–
1929.8.10
1926.6.3 ローマ=カトリック国民党(RKSP)
1926.11 – 1927.1 インドネシア共産党武装蜂起事件
1927 カトリックがティルブルヒュ大学(ティルブルフ大学)を設立
1927 コルネリス・レリの指揮下、ザイデル海(ゾイデル海)開発が開始
1928.7.28 – 8.12 第9回アムステルダムオリンピック大会
31
チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck
ローマ=カトリック国民党(RKSP)
32
1929.8.10
–
1933.5.26
第3次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣(RKSP/ARP/CHU)
1929.10 世界恐慌始まる
1931.12.14 アントン・ミュッセルトによりオランダ国民社会主義運動(NSB)が設立
1932.3.28 ザイデル海(ゾイデル海)に大締切堤防完成、内海としてアイセル湖(エイセル湖)生まれる
1933.3 海軍巡洋艦デ・ゼーベン・プロヴィンシエン号の反乱
33
ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer
キリスト教歴史同盟
(CHU)
34
ペーター・シュールド・ヘルブランディー
Pieter Sjoerds Gerbrandy
反革命党(ARP)
38
1940.9.3
–
1941.7.28
39
1941.7.28
–
1945.2.23
第2次ヘルブランディー内閣(第3次ロンドン内閣)(RKSP/SDAP/ARP/CHU/LSP/VDB)
1941.12.8 東インド総督から日本に宣戦布告
12.10 正式ルートによりオランダ亡命政府が日本へ宣戦布告
1942.1.12 日本がオランダに宣戦布告
1942.3.9 東インド植民地が日本軍に無条件降伏→日本軍による東インド植民地の占領始まる
1942.7 「労働奉仕」名目でユダヤ人のドイツ移送が始まる
1942.8 – 10 ヨハン・ホイジンガがナチスドイツによって強制収容所に収監
1943.4-5 全国スト
抵抗グループがアムステルダム戸籍登記所を襲撃
1944-45 オランダ飢餓の冬
1944.8.4 アンネ・フランク(『アンネの日記』の著者)がナチス親衛隊に隠れ家を発見され、隠れ家住人と共に強制収容所へと移送
1944.8 ベネルクス関税同盟を締結
1944.9 アルネムで連合軍のマーケット・ガーデン作戦が失敗に終わる
首相(Minister-president van Nederland)(1945年-現在)
代
氏名
期
在任期間
事績
35
ウィレム・スヘルメルホルン
Willem Schermerhorn
自由民主連合(1946年迄)
労働党(1946年以降)
41
1945.6.25
–
1946.7.3
スヘルメルホルン=ドレース暫定内閣(VDB/SDAP/KVP/ARP)⇒挙国一致内閣(総選挙に拠らず女王の指名によって成立)
1945 オランダ人民運動(NVB)が始まる(-51)
1945.8.17 スカルノによりインドネシア独立宣言
1945.8.17 – 1949.12.27 インドネシア独立戦争
1945.9 中央計画局(CPB)を設立(計画的な経済開発促進、賃金と物価の抑制策)
1945.10 労使協議の場として労働協会を設立
1945.12 ローマ=カトリック国民党(RKSP)がより開かれたカトリック人民党(KVP)に衣替え
1946.2 社会民主労働者党が他勢力を加え労働党(PvdA)として再出発
1946.3 東インドにオランダ軍が到着
36
ルイス・ベール
Louis Beel
カトリック人民党(KVP)
42
1946.7.3
–
1948.8.7
内務大臣を兼務
1947.3 イギリスが調停してインドネシア共和国との間でリンガジャティ協定が成立
1947.5 老齢年金緊急規定法(ドレース緊急法)成立
1947.6.5 マーシャル・プラン(欧州復興計画)発表
1947.7.20 – 8.5 ジャワ、スマトラで第一次警察行動
1948.1.17 アメリカが調停したレンヴィル協定にインドネシア共和国と共に署名・批准
1948.1.24 自由民主国民党(VVD)が設立
1948.1 ベネルクス関税同盟が発効
1948.3 ブリュッセル条約(英・仏・ベネルクス)→西欧同盟成立
1948.9.18 インドネシア共産党(PKI)などの急進左派勢力によるマディウン蜂起(マディウン事件)
ユリアナ Juliana(1948-1980)
37
43
1948.8.7
–
1951.3.15
ドレース=ファン・シェイク内閣(PvdA/KVP/CHU/VVD)
1948.12.19 – 1949.1.5 ジャワ、スマトラで第二次警察行動(スカルノ、ハッタ正副大統領を逮捕・幽閉)
1949.3 職業年金基金法
1949.4 北大西洋条約機構(NATO)に加盟
→中立主義外交の終焉
1949.8.23 – 11.2 オランダ-インドネシア円卓会議(ハーグ円卓会議)にてインドネシア連邦共和国の独立を承認
12.22 オランダ・インドネシア連邦共和国が成立
ゼーラント州大洪水(死者約2000人、家畜約20万頭失われる)
1950.2 社会経済協議会(SER)を設立
1950.8 1950年憲法への改正によりインドネシア共和国が成立(連邦制から単一国家へ)→南マルク(モルッカ)共和国の独立宣言→インドネシア軍が制圧
1950.11 退職者家族手当法
45
1952.9.2
–
1956.10.13
38
ルイス・ベール
Louis Beel
カトリック人民党(KVP)
39
ヤン・デ・クヴァイ
Jan de Quay
カトリック人民党(KVP)
48
1959.5.19
–
1963.7.24
1959.7.22 フローニンゲン州東部スロホテレンで天然ガス田が発見
1960 – 61 週休二日制の導入
1960.8 ニューギニア(西イリヤン)を廻ってインドネシアと国交断交
1960.12.23 内閣は追加公営住宅(ウォニングウェトゥニンゲン)問題により一旦倒れたが、ガイウス・デ・ガイ・フォートマンが閣内を和解させ、1961.1.2に内閣が再開
1961.12.19 インドネシアと事実上の戦争状態に入る
1962.8.15 ニューヨーク協定として和平合意が成立
1962.10.1 西イリアンを暫定国連臨時執行機関(UNTEA)に引き渡す
1963.5.1 西イリアンをインドネシアに割譲
1963 カルス文相提案の新中等教育制度改革案(マンムット法)が議会を通過
40
ヴィクトル・マリネン
Victor Marijnen
カトリック人民党(KVP)
41
42
イェレ・ゼイルストラ
Jelle Zijlstra
反革命党(ARP)
43
ピート・デ・ヨング
Piet de Jong
カトリック人民党(KVP)
44
バレント・ビースフーヴェル
Barend Biesheuvel
反革命党(ARP)
45
ヨープ・デン・アイル
Joop den Uyl
55
1973.5.11
–
1977.12.19
デン・アイル内閣(PvdA/KVP/ARP/D66/PPR)
1973.10 第1次オイルショック(OPECがオランダ向け原油を禁輸)
→車無しの日曜日導入
→この頃から天然資源の輸出により製造業が衰退し高賃金のまま失業率が高まる現象を「オランダ病」と呼び始める
1973 ロッテルダム医学部とオランダ経済学部が合併しエラスムス・ロッテルダム大学となる
1973.11 キリスト教民主主義系3党、カトリック人民党(KVP)、反革命党(ARP)、キリスト教歴史同盟(CHU)がキリスト教民主アピール(CDA)を発表
1974.6 低賃金労働を受け入れる失業者への追加給付金制度
1974.6.13 – 7.7 FIFAワールドカップ西ドイツ大会にてヨハン・クライフ等の活躍により準優勝
1974.10 初等教育法
1975 生活保護費の大幅な増額、民間部門の契約上の賃金開発に合わせた給付金と最低賃金のスライド、家賃再調整助成金(家賃リベート制度)
1975.11 スリナムが独立
1975.12 オランダ労働組合連合(NVV, 労働党系)とオランダ・カトリック労働組合(NKV)が合併してオランダ労働組合連合(FNV)が誕生
1976.6 WWV制度
1976.8 妊娠中および出産後12週間の雇用保護制度が導入
1976 ベルンハルト殿下がロッキード社から賄賂を受け取っていたことが判明
1977.4 アスベスト法令
1977.5.23 モルッカ人、デ・プントで列車乗っ取り、ボーフェンスミルデで小学校占拠
46
ドリース・ファン・アフト
Dries van Agt
カトリック人民党(KVP)(1980年迄)
キリスト教民主アピール(1980年以降)
56
1977.12.19
–
1981.9.11
208日という記録的な連立工作期間を経て誕生
総務大臣を兼務
1979.1 第2次オイルショック
1979 NATO理事会がソ連に対抗するため、米国製核ミサイルを西欧5か国に配備を決定(オランダには48基)
1980.10.11 これまでの3党が解党しキリスト教民主アピール(CDA)が正式に結成
1981.3 反革命党系の党内左派が離脱、福音人民党(EVP)を設立
ベアトリクス Beatrix(1980-2013)
47
ルード・ルベルス
Ruud Lubbers
59
1982.11.4
–
1986.7.14
「ノー・ナンセンス政策」
1981 米新型巡航ミサイル配備反対デモ
1982.11.24 ワッセナー合意:長期の賃金抑制、雇用確保、労働時間短縮、より柔軟な労働形態の容認について労使合意を取り付け
1983.10.29 ハーグで約55万人参加の反核集会
19846.1 米ソ軍縮交渉が決裂した場合にオランダに核ミサイル配備を実行することを宣言
1985.11 オランダに核ミサイル配備を最終決定(→ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ開始により核ミサイル配備は見送り)
1986.1 12番目の州としてフレヴォラント州成立
1986.2.17 単一欧州議定書の署名(ルクセンブルク)
1986.2.28 単一欧州議定書の署名(ハーグ)
1986.4.26 チェルノブイリ原発事故
60
1986.7.14
–
1989.11.7
48
62
1994.8.22
–
1998.8.3
63
1998.8.3
–
2002.7.22
50
68
2010.10.14
–
2012.11.5
69
2012.11.5
–
2017.10.26
70
2017.10.26
–
2022.1.10
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