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歴代オランダ首相(Minister-presidents van Nederland)

リベラルアーツ
「ピーテル・コルト・ファン・デル・リンデン」「ウィレム・ドレース」「ルード・ルベルス」歴代オランダ首相
  1. オランダ首相について
  2. 大臣会議議長(Voorzitters van de ministerraad)(1815年-1945年)
    1. ウィレム2世ウィレム2世 Willem II(1840-1849)
    2. ゲリット・スヒンメルペニンク
      Gerrit, Count Schimmelpenninck
    3. ジェイコブ・デ・ケンペナール
      Jacob de Kempenaer
    4. ウィレム3世 Willem IIIウィレム3世 Willem III(1849-1890)
    5. ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
      Johan Rudolph Thorbecke
    6. フロリス・アドリアン・ファン・ハル
      Floris Adriaan van Hall
    7. ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン
      Justinus van der Brugghen
    8. ヤン・ジェイコブ・ロシュセン
      Jan Jacob Rochussen
    9. フロリス・アドリアン・ファン・ハル
      Floris Adriaan van Hall
    10. ヤコブ・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
      Jacob van Zuylen van Nijevelt
    11. シェルト・ファン・ヘームストラ
      Schelto van Heemstra
    12. ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
      Johan Rudolph Thorbecke
    13. イサーク・ディグナス・フランセン・ファン・デ・プッテ
      Isaäc Dignus Fransen van de Putte
    14. ユリウス・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
      Julius van Zuylen van Nijevelt
    15. ペーター・フィリップ・ファン・ボッセ
      Pieter Philip van Bosse
    16. ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
      Johan Rudolph Thorbecke
    17. ゲリット・デ・フルース
      Gerrit de Vries
    18. ヤン・ヘームスケルク
      Jan Heemskerk
    19. ヤン・カッペイネ・ファン・デ・コッペロ
      Jan Kappeyne van de Coppello
    20. テオ・ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク
      Theo van Lynden van Sandenburg
    21. ヤン・ヘームスケルク
      Jan Heemskerk
    22. アイネイアス・マッカイ
      Aeneas Mackay Jr.
    23. ウィルヘルミナ Wilhelminaウィルヘルミナ Wilhelmina(1890-1948)
    24. ハイスベルト・ティーンホーフェン
      Gijsbert van Tienhoven
    25. ジョアン・ロエル
      Joan Röell
    26. ニコラス・ピールソン
      Nicolaas Pierson
    27. アブラハム・カイペル
      Abraham Kuyper
    28. テオ・デ・メーステル
      Theo de Meester
    29. テオ・ヘームスケルク
      Theo Heemskerk
    30. ピーター・コルト・ファン・デル・リンデン
      Pieter Cort van der Linden
    31. チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
      Charles Ruijs de Beerenbrouck
    32. ヘンドリクス・コレイン
      Hendrikus Colijn
    33. ディルク・ヤン・デ・ヘール
      Dirk Jan de Geer
    34. チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
      Charles Ruijs de Beerenbrouck
    35. ヘンドリクス・コレイン
      Hendrikus Colijn
    36. ディルク・ヤン・デ・ヘール
      Dirk Jan de Geer
    37. ペーター・シュールド・ヘルブランディー
      Pieter Sjoerds Gerbrandy
  3. 首相(Minister-president van Nederland)(1945年-現在)
    1. ウィレム・スヘルメルホルン
      Willem Schermerhorn
    2. ルイス・ベール
      Louis Beel
    3. ユリアナ Julianaユリアナ Juliana(1948-1980)
    4. ウィレム・ドレース
      Willem Drees
    5. ルイス・ベール
      Louis Beel
    6. ヤン・デ・クヴァイ
      Jan de Quay
    7. ヴィクトル・マリネン
      Victor Marijnen
    8. ヨー・カルス
      Jo Cals
    9. イェレ・ゼイルストラ
      Jelle Zijlstra
    10. ピート・デ・ヨング
      Piet de Jong
    11. バレント・ビースフーヴェル
      Barend Biesheuvel
    12. ヨープ・デン・アイル
      Joop den Uyl
    13. ドリース・ファン・アフト
      Dries van Agt
    14. ベアトリクス Beatrixベアトリクス Beatrix(1980-2013)
    15. ルード・ルベルス
      Ruud Lubbers
    16. ウィム・コック
      Wim Kok
    17. ヤン・ペーター・バルケネンデ
      Jan Peter Balkenende
    18. マルク・ルッテ
      Mark Rutte
    19. ウィレム=アレクサンダー Willem-Alexanderウィレム=アレクサンダー Willem-Alexander(2013-)
    20. ディック・スホーフ
      Dick Schoof
  4. 参考リンク
  5. あわせて読みたい

オランダ首相について

オランダ首相は、オランダ政府の行政府の長である。オランダ王国の君主は国王で、同時に君主は法定の政府首長で あるが、事実上首相は閣僚評議会の議長としてこの役割を担っており、その政策を閣僚の他のメンバーと調整する。政府首脳としての役割において、首相は欧州理事会においてオランダの代表も務めている。

1848年にオランダ憲法が改正され、閣僚は国会に対して責任を負い、閣僚のリーダーである国王に対しては責任を負わなくなった。 1901年までは、閣僚評議会の議長は正式に閣僚間で交代していた。 1901年から1945年までの間、閣僚評議会議長の職は正式なローテーション制であり、任期は4年とされていた。

1983年の憲法見直しを受けて、オランダ憲法で初めて首相の地位が正式に定められた。オランダ憲法では、政府は国王と大臣によって構成され、首相が閣僚評議会の議長を務め(第45条)、王令によって任命され(第43条)、彼ら自身の任命勅令と他の閣僚の任命勅令には首相が連署するものとする(第48条)。閣僚評議会に国王は出席しなくなった。

以下の首相リストは、1848年のオランダ憲法改正により、議会制民主主義が導入された時点から始まるものである。

大臣会議議長(Voorzitters van de ministerraad)(1815年-1945年)

ウィレム2世ウィレム2世 Willem II(1840-1849)

ゲリット・スヒンメルペニンク
Gerrit, Count Schimmelpenninck

ゲリット・スヒンメルペニンク Gerrit, Count Schimmelpenninck

リベラル派

1848.3.25

5.17

スヒンメルペニンク内閣(保守派)

1948.11.3 改正憲法公布、責任内閣制始まる

自由主義勢力の全盛時代が始まる

英国モデルに従った憲法制定の提案は、国王による上院の解散が不可能であることを暗示していたが、他の閣僚によって拒否されたため辞任

ジェイコブ・デ・ケンペナール
Jacob de Kempenaer

ジェイコブ・デ・ケンペナール
Jacob de Kempenaer

リベラル派

1848.11.21

1849.11.1

デ・ケンペナール=ドンカー・クルティウス内閣(リベラル派)

トルベッケ憲法委員会の一員

ウィレム3世 Willem IIIウィレム3世 Willem III(1849-1890)

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

リベラル派

1849.11.1

1853.4.19

第1次トルベッケ内閣(リベラル派)

1850 選挙法と州法の制定

1851 地方自治体法

1853.3 カトリックの司教区を復活→改革派の激しい反発(四月運動)→トルベッケ退陣・議会解散

四月運動

フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall

フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall

リベラル派

1853.4.19

1856.7.1

ファン・ハル=ドンカー・クルティウス内閣(保守派)

1854 カトリックに司教区制の導入を認め、カトリックの完全復権なる

1856.4 ウィレム3世により、。クリミア戦争で外務大臣としてオランダの中立を守ることに成功した行為に対する感謝の印として男爵位を授けられる

ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン
Justinus van der Brugghen

ユスティヌス・ファン・デル・ブルッヘン
Justinus van der Brugghen

反革命派(Antirevolutionary)

1856.7.1

1858.3.18

ファン・デル・ブルッヘン内閣(保守派)

フォーメイターとして就任

1957 初等教育法(公教育の中立・一元化)

ヤン・ジェイコブ・ロシュセン
Jan Jacob Rochussen

ヤン・ジェイコブ・ロシュセン
Jan Jacob Rochussen

保守派

1858.3.18

1860.2.23

ロシュセン内閣(リベラル派/保守派)

1859.3.23 州鉄道法が否決後に辞任

1860.12.14 下院会議で予算案が否決されたため、その日付で辞任

フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall

フロリス・アドリアン・ファン・ハル
Floris Adriaan van Hall

リベラル派

1860.2.23

1861.3.14

ファン・ハル=ファン・ヘームストラ内閣(リベラル派/保守派)

1860 ダウエス=デッケル(筆名ムルタトゥーリ)が『マックス・ハーフェラール』を発表

マックス・ハーフェラール

1860 東インドで奴隷制廃止

1861.1 パンカ事件の影響によりロシュセン植民地相が辞任

パンカ事件

健康上の理由からオランダ東インド総督への任命を辞退

ヤコブ・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Jacob van Zuylen van Nijevelt

ヤコブ・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Jacob van Zuylen van Nijevelt

リベラル派

1861.3.14

11.10

ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト==ファン・ヘームストラ内閣(リベラル派/保守派)

ヤン・ジェイコブ・ロシュセンの娘婿

シェルト・ファン・ヘームストラ
Schelto van Heemstra

シェルト・ファン・ヘームストラ
Schelto van Heemstra

リベラル派

1861.11.10

1862.2.1

ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト==ファン・ヘームストラ内閣(リベラル派/保守派)

1861.12 国家予算案が議会で否決
→1862.2.1に正式に辞任

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

リベラル派

1862.2.1

1866.2.10

第2次トルベッケ内閣(リベラル派)

1862 コショウの強制栽培制度廃止

1862 ベッツ関税法(保護関税の大幅引き下げ、河川通航税の廃止)

1862 津田真道と西周がライデン大学でシモン・フィッセリング教授に法学を学ぶ(-65)

1863.5 中等教育法(HBS: ホゲレバーガースクール)

1863.7.3 860年鉄道法に従って建設された鉄道の運営に関する法律

1863 西インドで奴隷制廃止

1864 ニューウェ・ウォーターウェグの開削が始まる(1872:試運転開始)

新ウォーター・ヴェーク

1865 藍、茶、ニッケイの強制栽培制度廃止

1865 地方税改革

1865.6.1 健康診断法

1865 -1876 北海運河の開削

北海運河

1866 タバコの強制栽培制度廃止

オランダ領東インドにおける刑法に関する紛争の後に辞任

イサーク・ディグナス・フランセン・ファン・デ・プッテ
Isaäc Dignus Fransen van de Putte

イサーク・ディグナス・フランセン・ファン・デ・プッテ
Isaäc Dignus Fransen van de Putte

リベラル派

1866.2.10

6.1

フランセン・ファン・デ・プッテ内閣(リベラル派)

オランダ領東インドの土地政策をめぐってトルベッケと対立し辞職

ユリウス・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Julius van Zuylen van Nijevelt

ユリウス・ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト
Julius van Zuylen van Nijevelt

保守派

1866.6.1

1868.6.4

ファン・ザイレン・ファン・ナイフェルト内閣(保守派)

少数内閣は、1866年と1868年の2回解散された議会と対立、この「紛争の時代」はリベラル派の勝利で終わる

ペーター・フィリップ・ファン・ボッセ
Pieter Philip van Bosse

ペーター・フィリップ・ファン・ボッセ
Pieter Philip van Bosse

リベラル派

1868.6.4

1871.1.4

ファン・ボッセ=フォック内閣(リベラル派)

トルベッケが設立した内閣で大蔵大臣として新たな任期を開始したが、トルベッケはそのまま内閣を率いることはなく、ファン・ボッセ自身が閣僚評議会議長として内閣を率い、後に首相と呼ばれるようになる

1869 印刷文書や新聞広告の印紙税を廃止する法律を導入(新聞切手の廃止)

1870 死刑制度廃止、軍隊のみで存続

1870 はがきの導入を許可する1850年の郵便法の改正

様々な理由で閣僚辞任が相次ぎ、ファン・ボッセも首相を辞任

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

ヨハン・ルドルフ・トルベッケ
Johan Rudolph Thorbecke

リベラル派

1871.1.4

1872.6.4

第3次トルベッケ内閣(リベラル派)

1871 キリスト教改革派十字架教会の合法化

1871 オランダ労働者総同盟が設立

1871.4.20 アレッタ・ヤーコプスが初の女子大学生としてフローニンゲン大学に入学

アレッタ・ヤーコプス

1872.3 イギリスとの間で植民地分割を確認するスマトラ条約を締結(エル・ミナ要塞をイギリスに譲渡してアフリカの完全撤退とアチェ支配承認を取引)

ゲリット・デ・フルース
Gerrit de Vries

ゲリット・デ・フルース
Gerrit de Vries

リベラル派

1872.6.4

1874.8.27

デ・フルース=フランセン・ファン・デ・プッテ内閣(リベラル派)

1873.3 – 1912 海賊行為を理由にアチェに宣戦布告(アチェ戦争)

アチェ戦争

ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk

ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk

保守派

1874.8.27

1877.11.3

ヘームスケルク=ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク内閣(保守派)

第26代テオ・ヘームスケルク首相の父

1875 金本位制を導入

1876.6 アムステルダムで改革派によりパトリモニウムという労働組合が作られる

ヤン・カッペイネ・ファン・デ・コッペロ
Jan Kappeyne van de Coppello

ヤン・カッペイネ・ファン・デ・コッペロ
Jan Kappeyne van de Coppello

リベラル派

1877.11.3

1879.8.20

カッペイネ・ファン・デ・コッペロ内閣(リベラル派)

1878 初等教育法(地方自治体の教育に対する権限を制限)→学校闘争の本格化

1879.1.7 ウィレム3世がドイツ貴族の娘エンマと再婚

1879.4 ユトレヒトでオランダ初の全国政党として反革命党(ARP)が結成

反革命党(ARP)

テオ・ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク
Theo van Lynden van Sandenburg

テオ・ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク
Theo van Lynden van Sandenburg

反革命派(Antirevolutionary)

1879.8.20

1883.4.23

ファン・リンデン・ファン・サンデンブルク内閣(リベラル派/保守派)

1880 改革派によりアムステルダム自由大学(オランダ初の私立大学)が設立

アムステルダム自由大学

1881 フェニミストらが普通選挙権期成同盟を設立

1882.3 オランダ初となる全国的な社会主義政党である社会民主同盟(SDB)が結成

社会民主同盟(SDB

ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk

ヤン・ヘームスケルク
Jan Heemskerk

保守派

1883.4.23


1888.4.20

ヤン・ヘームスケルク内閣(リベラル派/保守派)

第26代テオ・ヘームスケルク首相の父

1885 自由連盟(LU)が結成

1885.7.13 アムステルダム国立博物館が開館

1886 改革派教会が2つに分裂「異議申し立ての教会分裂」、オランダ(正統)改革派教会が設立

1887 憲法改正(男性参政権の拡大と女性参政権の明示的排除)

アイネイアス・マッカイ
Aeneas Mackay Jr.

アイネイアス・マッカイ
Aeneas Mackay Jr.

反革命党(ARP)

1888.4.20

1891.8.21

マッカイ内閣連合

オランダ初の宗派連立内閣が成立

1888.5.1 ドメラ・ニーウェンハイスが初の社会主義者として第二院議員となる

ドメラ・ニーウェンハイス

1889 下等教育法を改正労働法の制定

1890.11.23 ウィルヘルミナ女王即位(王太后のエマが摂政に立つ、ルクセンブルクは女系相続を認めていなかったため、オラニェ家(オラニエ家)はルクセンブルク大侯位を失う)

c.a. 1890-1910 オランダの産業革命

1890 王立オランダ石油会社(後のロイヤル・ダッチ・シェル)が設立

1890.7.29 画家ファン・ゴッホが、パリ近郊オーヴェール・オワーズで自殺

ファン・ゴッホ

1891 サトウキビの強制栽培制度廃止

カトリック系最初の労働組合が結成

1891.5.15 フィリップス社が創業

フィリップス社

徴兵制をめぐる内紛により政権崩壊

ウィルヘルミナ Wilhelminaウィルヘルミナ Wilhelmina(1890-1948)

ハイスベルト・ティーンホーフェン
Gijsbert van Tienhoven

ハイスベルト・ティーンホーフェン
Gijsbert van Tienhoven

リベラル派

1891.8.21

1894.5.9

ファン・ティーンホーフェン内閣(リベラル派)

外務大臣を兼任

財務相ピールソンによる税制改革

1893 国際私法に関する国際会議を主催

1894 内務大臣ヨハネス・タク・ファン・ポールトヴリートが男子普通選挙を導入する法案を提出、ティーンホーフェンはこの法案を支持したが下院で否決、内閣崩壊の原因となる

ヨハネス・タク・ファン・ポールトヴリート

ジョアン・ロエル
Joan Röell

ジョアン・ロエル
Joan Röell

リベラル派

1894.5.9

1897.7.27

ロエル内閣(リベラル派)

外務大臣を兼任

1894.8.26 社会民主労働者党(SDAP)が結成

社会民主労働者党(SDAP)

1895 メンゲルベルクがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者となる

メンゲルベルク

1896 選挙権を大幅に拡大、有権者数を2倍にする

ニコラス・ピールソン
Nicolaas Pierson

ニコラス・ピールソン
Nicolaas Pierson

自由連合

1897.7.27

1901.8.1

ピールソン内閣(リベラル派)

「社会正義内閣」

1899 元植民地官僚デーフェンテルが『名誉の負債』を発表

1899.8.29 ロシア帝国皇帝ニコライ2世の提唱で第1回万国平和会議(ハーグ平和会議)

第1回万国平和会議(ハーグ平和会議)

1899.10.11 – 1902.5.31 第2次ボーア戦争→ボーア人指導者のオランダ亡命を認める

第2次ボーア戦争

1900 初等教育の義務化

1901 労働災害保険法の制定

1901 児童法

1901.3 自由民主連合(VDB)が結成

自由民主連合(VDB)

アブラハム・カイペル
Abraham Kuyper

アブラハム・カイペル
Abraham Kuyper

反革命党(ARP)

1901.8.1

1905.8.17

カイペル内閣連合

「外国旅行大臣」

1901.9 植民地に対する「倫理政策」を発表

倫理政策

ハーグに常設仲裁裁判所が置かれる

常設仲裁裁判所

1903 アムステルダムの港湾労働者による全面ストライキ→鉄道ストライキ(初のゼネスト)につながり、一時的に成功を収める

1904.10.15 ローマカトリック全国有権者同盟が結成

1905 公立学校と宗派の私立学校を完全対等資格とする教育改革

1905.4 ストライキ禁止法

テオ・デ・メーステル
Theo de Meester

テオ・デ・メーステル
Theo de Meester

自由連合

1905.8.17

1908.2.12

デ・メーステル内閣(リベラル派)

「磁器内閣」

1907年国防予算案の上院否決を受けて1906年12月に初めて辞任したがこの辞任はウィルヘルミナ女王によって拒否、第二院が再び1908年国防予算案を否決したため、1907年12月に政府は崩壊、政府は1908年2月12日まで委任政府として存続

1907.6.15 – 10.18 ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第2回万国平和会議(ハーグ平和会議)

第2回万国平和会議(ハーグ平和会議)

テオ・ヘームスケルク
Theo Heemskerk

テオ・ヘームスケルク
Theo Heemskerk

反革命党(ARP)

1908.2.12

1913.8.29

テオ・ヘームスケルク内閣連合

第16代・19代ヤン・ヘームスケルク首相の息子

1908.7 キリスト教歴史同盟(CHU)が結成

キリスト教歴史同盟(CHU)

1911 予防接種法

1912 改正救貧法

1913 タルマ農・商・工業相が「労働協議会」を設立

ピーター・コルト・ファン・デル・リンデン
Pieter Cort van der Linden

ピーター・コルト・ファン・デル・リンデン
Pieter Cort van der Linden

リベラル派

1913.8.29

1918.9.9

コルト・ファン・デル・リンデン内閣(リベラル派)

党派を超えた立場から誠実な仲介者として行動することを表明

1914.7.28 – 1918.11.11 第一次世界大戦→オランダは厳正中立を宣言

第一次世界大戦

1916 コーヒーの強制栽培制度廃止

1916.1 ザイデル海(ゾイデル海)の大洪水→締め切り大堤防(アフシュライトダイク)工事の契機

1916年の大洪水

1917 ジャガイモ飢饉

ジャガイモ飢饉

1917 モンドリアンを中心にデ・ステイルの芸術運動が始まる

モンドリアン

1917年のパシフィケーション:左派の自由主義者と社会主義者と右派の一部のキリスト教政党との間の政治協定

1917年のパシフィケーション

1917.12 憲法改正(宗派の宗教教育への公的助成金、男子普通選挙・完全比例代表制の導入)

→学校闘争の終焉

1918 女性議員第1号誕生

1918.4.24 改革政党(保守カルヴァン主義政党)(SGP)が設立

改革政党(SGP)

1918.11 ホラント共産党(CPH)が設立

→柱状化社会・多極共存型社会の形成(❶カトリック、❷改革派(カルヴァン派)、❸自由主義勢力、❹社会(民主)主義勢力)

チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck

チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck

ローマ=カトリック国民党(RKSP)

1918.9.9

1922.9.18

第1次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣RKSP/ARP/CHU

1918.11.9-18 社会民主労働者党(SDAP)の党首ピーテル・イェレス・トロエルストラが ロシア革命とドイツ革命に触発されて、労働者階級の間で社会主義革命を呼びかけたが失敗

1918.11.10 前ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命

ヴィルヘルム2世

1919 普通選挙(女性参政権)

労働協議会を高等労働協議会へ改組、労働法改正(週45時間労働導入、14歳以下の児童の就労禁止

ラジオ放送開始

1919.10.7 KLMオランダ航空が設立

KLMオランダ航空

1920.1 国際連盟に加盟

国際連盟

1921.4.16 自由同盟(LSP)が設立(1924に「自由国家党」)

自由州党 自由同盟 LSP

1922.9.18

1925.8.4

第2次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣RKSP/ARP/CHU

1922 女性参政権が改正憲法に記載される

1923 カトリックによりナイメーヘン大学(ラドバウド大学)が設立

ナイメーヘン大学(ラドバウド大学)

1923.10.26 艦隊法が第二院で否決
→艦隊法の危機

艦隊法の危機

1925.4 金本位制に復帰

ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn

ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn

反革命党(ARP)

1925.8.4

1926.3.8

第1次コレイン内閣RKSP/ARP/CHU

財務大臣を兼任

改革政党のゲリット・ヘンドリック・ケルステンによる、プロテスタントとの外交関係を求める決議案を第二院が受け入れたため辞任

ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer

ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer

キリスト教歴史同盟
CHU

1926.3.8

1929.8.10

第1次デ・ヘール内閣RKSP/ARP/CHU

1926.6.3 ローマ=カトリック国民党(RKSP)

ローマ=カトリック国民党(RKSP)

1926.11 – 1927.1 インドネシア共産党武装蜂起事件

1927 カトリックがティルブルヒュ大学(ティルブルフ大学)を設立

ティルブルヒュ大学(ティルブルフ大学)

1927 コルネリス・レリの指揮下、ザイデル海(ゾイデル海)開発が開始

コルネリス・レリ

1928.7.28 – 8.12 第9回アムステルダムオリンピック大会

アムステルダムオリンピック大会

チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck

チャールズ・ルイス・デ・ベーレンブルック
Charles Ruijs de Beerenbrouck

ローマ=カトリック国民党(RKSP)

1929.8.10

1933.5.26

第3次ルイス・デ・ベーレンブルック内閣RKSP/ARP/CHU

1929.10 世界恐慌始まる

世界恐慌

1931.12.14 アントン・ミュッセルトによりオランダ国民社会主義運動(NSB)が設立

オランダ国民社会主義運動(NSB)

1932.3.28 ザイデル海(ゾイデル海)に大締切堤防完成、内海としてアイセル湖(エイセル湖)生まれる

締め切り大堤防 Afsluitdijk

1933.3 海軍巡洋艦デ・ゼーベン・プロヴィンシエン号の反乱

デ・ゼーベン・プロヴィンシエン号の反乱

ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn

ヘンドリクス・コレイン
Hendrikus Colijn

反革命党(ARP)

1933.5.26

1935.7.31

第2次コレイン内閣RKSP/ARP/CHU/LSP/VDB

1933.2 ライデン生まれの元共産党員マリヌス・ファン・デル・ルッペによりベルリンのドイツ国会議事堂放火炎上事件が起こる

マリヌス・ファン・デル・ルッペ
ドイツ国会議事堂放火事件

1934.7.4 アムステルダムで主に失業者によるヨルダン暴動が起きる

ヨルダン暴動

1935.7.31

1937.6.24

第3次コレイン内閣RKSP/ARP/CHU/LSP/VDB

1935 失業率が最大となる(職業人口の15.5%)

1936.3.11 国際的緊張と戒厳状態に関するラジオ演説

1936.9.26 金本位制から離脱、フルデン(ギルダー)切下げ

1937.6.24

1939.7.25

第4次コレイン内閣RKSP/ARP/CHU

1939 ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』を発表

ホモ・ルーデンス

1939.7.25

1939.8.10

第5次コレイン内閣ARP/CHU/LSP

1939.8.28 ウィルヘルミナ女王の厳正中立宣言

ローマ=カトリック国民党(RKSP)派閥指導者のデッカーズによる動議によって投票で退陣

ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer

ディルク・ヤン・デ・ヘール
Dirk Jan de Geer

キリスト教歴史同盟
CHU

1939.8.10

1940.9.3

第2次デ・ヘール内閣(第1次ロンドン内閣)(RKSP/SDAP/ARP/CHU/VDB

1939.9.1 – 1945.9.2 第二次世界大戦

第二次世界大戦

1940.5.10 ドイツ軍による宣戦布告無しのオランダ・ベルギー侵攻

オランダにおける戦い (1940年)

5.13 女王一家と全閣僚がイギリスへ亡命

5.14 全権委任されたオランダ軍総司令官ウィンケルマンがドイツに降伏

5.29 ヒトラーの信任厚いザイス=インクヴァルトを第三帝国委員としてハーグに派遣、占領行政が開始

アルトゥル・ザイス=インクヴァルト

和平に傾いたデ・ヘールは女王と対立して辞任

ペーター・シュールド・ヘルブランディー
Pieter Sjoerds Gerbrandy

ペーター・シュールド・ヘルブランディー
Pieter Sjoerds Gerbrandy

反革命党(ARP)

1940.9.3

1941.7.28

第1次ヘルブランディー内閣(第2次ロンドン内閣)(RKSP/SDAP/ARP/CHU/VDB

法務大臣および植民地大臣を兼務

1941.2 オランダ人の強制労働への動員が開始(ドイツ降伏時に30万人のオランダ人がドイツに抑留)

アムステルダムで「ユダヤ人評議会」が組織される

アムステルダムで「二月ストライキ」(ユダヤ人迫害に対する抗議)

1941.7.28

1945.2.23

第2次ヘルブランディー内閣(第3次ロンドン内閣)(RKSP/SDAP/ARP/CHU/LSP/VDB

1941.12.8 東インド総督から日本に宣戦布告

12.10 正式ルートによりオランダ亡命政府が日本へ宣戦布告

1942.1.12 日本がオランダに宣戦布告

1942.3.9 東インド植民地が日本軍に無条件降伏→日本軍による東インド植民地の占領始まる

1942.7 「労働奉仕」名目でユダヤ人のドイツ移送が始まる

1942.8 – 10 ヨハン・ホイジンガがナチスドイツによって強制収容所に収監

ヨハン・ホイジンガ

1943.4-5 全国スト

抵抗グループがアムステルダム戸籍登記所を襲撃

1944-45 オランダ飢餓の冬

1944.8.4 アンネ・フランク(『アンネの日記』の著者)がナチス親衛隊に隠れ家を発見され、隠れ家住人と共に強制収容所へと移送

アンネ・フランク

1944.8 ベネルクス関税同盟を締結

1944.9 アルネムで連合軍のマーケット・ガーデン作戦が失敗に終わる

マーケット・ガーデン作戦

1945.2.23

1945.6.25

第3次ヘルブランディー内閣(第4次ロンドン内閣)(RKSP/ARP/VDB

1945.5.5 ドイツ軍の無条件降伏→オランダ解放→全土の解放を機に辞任

首相(Minister-president van Nederland)(1945年-現在)

ウィレム・スヘルメルホルン
Willem Schermerhorn

ウィレム・スヘルメルホルン
Willem Schermerhorn

自由民主連合(1946年迄)
労働党(1946年以降)

1945.6.25

1946.7.3

スヘルメルホルン=ドレース暫定内閣VDB/SDAP/KVP/ARP)⇒挙国一致内閣(総選挙に拠らず女王の指名によって成立)

1945 オランダ人民運動(NVB)が始まる(-51)

オランダ人民運動(NVB)

1945.8.17 スカルノによりインドネシア独立宣言

インドネシア独立宣言

1945.8.17 – 1949.12.27 インドネシア独立戦争

インドネシア独立戦争

1945.9 中央計画局(CPB)を設立(計画的な経済開発促進、賃金と物価の抑制策)

1945.10 労使協議の場として労働協会を設立

1945.12 ローマ=カトリック国民党(RKSP)がより開かれたカトリック人民党(KVP)に衣替え

1946.2 社会民主労働者党が他勢力を加え労働党(PvdA)として再出発

1946.3 東インドにオランダ軍が到着

ルイス・ベール
Louis Beel

ルイス・ベール
Louis Beel

カトリック人民党(KVP)

1946.7.3

1948.8.7

第1次ベール内閣KVP/PvdA

内務大臣を兼務

1947.3 イギリスが調停してインドネシア共和国との間でリンガジャティ協定が成立

リンガジャティ協定

1947.5 老齢年金緊急規定法(ドレース緊急法)成立

1947.6.5 マーシャル・プラン(欧州復興計画)発表

マーシャル・プラン(欧州復興計画)

1947.7.20 – 8.5 ジャワ、スマトラで第一次警察行動

1948.1.17 アメリカが調停したレンヴィル協定にインドネシア共和国と共に署名・批准

レンヴィル協定

1948.1.24 自由民主国民党(VVD)が設立

自由民主国民党(VVD)

1948.1 ベネルクス関税同盟が発効

1948.3 ブリュッセル条約(英・仏・ベネルクス)→西欧同盟成立

ブリュッセル条約 (1948年)
西欧同盟

1948.9.18 インドネシア共産党(PKI)などの急進左派勢力によるマディウン蜂起(マディウン事件)

マディウン蜂起
マディウン事件後の混乱の中で射殺されたPKIの指導者ムソ

ユリアナ Julianaユリアナ Juliana(1948-1980)

1948.8.7

1951.3.15

ドレース=ファン・シェイク内閣PvdA/KVP/CHU/VVD

1948.12.19 – 1949.1.5 ジャワ、スマトラで第二次警察行動(スカルノ、ハッタ正副大統領を逮捕・幽閉)

1949.3 職業年金基金法

1949.4 北大西洋条約機構(NATO)に加盟
→中立主義外交の終焉

北大西洋条約機構(NATO)

1949.8.23 – 11.2 オランダ-インドネシア円卓会議(ハーグ円卓会議)にてインドネシア連邦共和国の独立を承認

12.22 オランダ・インドネシア連邦共和国が成立

オランダ-インドネシア円卓会議(ハーグ円卓会議

ゼーラント州大洪水(死者約2000人、家畜約20万頭失われる)

1950.2 社会経済協議会(SER)を設立

1950.8 1950年憲法への改正によりインドネシア共和国が成立(連邦制から単一国家へ)→南マルク(モルッカ)共和国の独立宣言→インドネシア軍が制圧

1950.11 退職者家族手当法

1951.3.15

1952.9.2

第1次ドレース内閣PvdA/KVP/CHU/VVD

1951.4 欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)に加盟

欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)

1951.5.31 テレビ放送開始

1952.9.2

1956.10.13

第2次ドレース内閣PvdA/KVP/ARP/CHU

1952 金貯蓄基金法(PSW)

1952 海外移住者の数が最大となる

1953.1.31 – 2.1 北海大洪水

北海大洪水

1954 – 1997 デルタ計画

デルタ計画

1954.8 インドネシアがオランダとの連合国家の解消を宣言

1954.10 パリ協定により西ドイツの主権回復と西独・伊が西欧同盟(WEU)へ加盟

1956.5 インドネシアがハーグ協定(オランダ・インドネシア連合)を正式に破棄

1956.5 一般老齢年金法(AOW)が成立

1965.6 グリート・ホフマンス事件

1956.10.13

1958.12.22

第3次ドレース内閣PvdA/KVP/ARP/CHU

1957.3 ローマ条約

欧州経済共同体(EEC)の設立条約調印

欧州経済共同体(EEC)

欧州原子力共同体(Euratom)が設立

欧州原子力共同体(Euratom)

1957.12 インドネシアが残留オランダ人を国外へ追放

増税案をめぐるカトリック人民党と労働党との決裂によりドレース退陣

ルイス・ベール
Louis Beel

ルイス・ベール
Louis Beel

カトリック人民党(KVP)

1958.12.22

1959.5.19

第2次ベール内閣KVP/ARP/CHU

総務大臣を兼務

臨時内閣として議会を解散

ヤン・デ・クヴァイ
Jan de Quay

ヤン・デ・クヴァイ
Jan de Quay

カトリック人民党(KVP)

1959.5.19

1963.7.24

デ・クヴァイ内閣KVP/ARP/CHU/VVD

1959.7.22 フローニンゲン州東部スロホテレンで天然ガス田が発見

1960 – 61 週休二日制の導入

1960.8 ニューギニア(西イリヤン)を廻ってインドネシアと国交断交

1960.12.23 内閣は追加公営住宅(ウォニングウェトゥニンゲン)問題により一旦倒れたが、ガイウス・デ・ガイ・フォートマンが閣内を和解させ、1961.1.2に内閣が再開

1961.12.19 インドネシアと事実上の戦争状態に入る

1962.8.15 ニューヨーク協定として和平合意が成立

1962.10.1 西イリアンを暫定国連臨時執行機関(UNTEA)に引き渡す

1963.5.1 西イリアンをインドネシアに割譲

イリアンジャヤ

1963 カルス文相提案の新中等教育制度改革案(マンムット法)が議会を通過

ヴィクトル・マリネン
Victor Marijnen

ヴィクトル・マリネン
Victor Marijnen

カトリック人民党(KVP)

1963.7.24

1965.4.14

マリネン内閣KVP/ARP/CHU/VVD

1964 最低賃金と国民医療サービスの導入(福祉国家政策の継続)

1964 ビートルズが来蘭

1965 ロッテルダム港がニューヨーク港を抜いて世界一の貿易港となる

オランダで商業テレビを営業許可するかの問題が紛糾して退陣

ヨー・カルス
Jo Cals

ヨー・カルス
Jo Cals

カトリック人民党(KVP)

1965.4.14

1966.11.22

カルス内閣KVP/ARP/PvdA

1966.4 民主主義66党が結成

この頃、プロフォ(Provo)(1960年代半ばのオランダのカウンターカルチャー運動)が活発化

プロフォ(Provo)

1966.10.13-14 「シュメルツァーの夜」事件(急進改革主義を強める労働党との連立に危惧を覚えたカトリック人民党から予算案動議が第二院に提出されたことを不信任と受け取り辞任)

イェレ・ゼイルストラ
Jelle Zijlstra

イェレ・ゼイルストラ
Jelle Zijlstra

反革命党(ARP)

1966.11.22

1967.4.5

ゼイルストラ内閣ARP/KVP

暫定内閣、財務大臣を兼務

フォンデリング大臣によって在任中に次期オランダ銀行の頭取として任命(首相辞任後に拝命)

ピート・デ・ヨング
Piet de Jong

ピート・デ・ヨング
Piet de Jong

カトリック人民党(KVP)

1967.4.5

1971.7.6

デ・ヨング内閣KVP/ARP/CHU/VVD

第二次世界大戦後、危機なく4年の任期を全うした初めてのオランダ内閣

1967.7.1 ブリュッセル条約の発効により欧州共同体(EC)が成立

欧州共同体(EC)

1969.5 学生運動によるティルブルヒュ大学・アムステルダム大学占拠事件

1969 住民投票を経て西イリアンがインドネシアに帰属

1969.12 新たな女性解放運動(ふぇにみすとグループ)の「ドレ・ミナ(Dolle Mina)」が始まる

1970 大学運営改革法

1970 インドネシアのスハルト大統領がオランダを公式訪問

バレント・ビースフーヴェル
Barend Biesheuvel

バレント・ビースフーヴェル
Barend Biesheuvel

反革命党(ARP)

1972.8.9

1973.5.11

ヨープ・デン・アイル
Joop den Uyl

ヨープ・デン・アイル
Joop den Uyl

労働党

1973.5.11

1977.12.19

デン・アイル内閣PvdA/KVP/ARP/D66/PPR

1973.10 第1次オイルショック(OPECがオランダ向け原油を禁輸)

オイルショック

→車無しの日曜日導入

→この頃から天然資源の輸出により製造業が衰退し高賃金のまま失業率が高まる現象を「オランダ病」と呼び始める

1973 ロッテルダム医学部とオランダ経済学部が合併しエラスムス・ロッテルダム大学となる

1973.11 キリスト教民主主義系3党、カトリック人民党(KVP)、反革命党(ARP)、キリスト教歴史同盟(CHU)がキリスト教民主アピール(CDA)を発表

1974.6 低賃金労働を受け入れる失業者への追加給付金制度

1974.6.13 – 7.7 FIFAワールドカップ西ドイツ大会にてヨハン・クライフ等の活躍により準優勝

ヨハン・クライフ

1974.10 初等教育法

1975 生活保護費の大幅な増額、民間部門の契約上の賃金開発に合わせた給付金と最低賃金のスライド、家賃再調整助成金(家賃リベート制度)

1975.11 スリナムが独立

スリナム

1975.12 オランダ労働組合連合(NVV, 労働党系)とオランダ・カトリック労働組合(NKV)が合併してオランダ労働組合連合(FNV)が誕生

1976.6 WWV制度

1976.8 妊娠中および出産後12週間の雇用保護制度が導入

1976 ベルンハルト殿下がロッキード社から賄賂を受け取っていたことが判明

ベルンハルト殿下

1977.4 アスベスト法令

1977.5.23 モルッカ人、デ・プントで列車乗っ取り、ボーフェンスミルデで小学校占拠

ドリース・ファン・アフト
Dries van Agt

ドリース・ファン・アフト
Dries van Agt

カトリック人民党(KVP)(1980年迄)
キリスト教民主アピール(1980年以降)

1977.12.19

1981.9.11

第1次ファン・アフト内閣CDA/VVD

208日という記録的な連立工作期間を経て誕生

総務大臣を兼務

1979.1 第2次オイルショック

第2次オイルショック

1979 NATO理事会がソ連に対抗するため、米国製核ミサイルを西欧5か国に配備を決定(オランダには48基)

1980.10.11 これまでの3党が解党しキリスト教民主アピール(CDA)が正式に結成

キリスト教民主アピール(CDA)

1981.3 反革命党系の党内左派が離脱、福音人民党(EVP)を設立

福音人民党(EVP)

1981.9.11

1982.5.29

第2次ファン・アフト内閣CDA/PvdA/D66

デン・アイルが副首相兼社会雇用省の「スーパー大臣」に就任→アイルとの決別により内閣が崩壊

1982.5.29

1982.11.4

第3次ファン・アフト内閣CDA/D66

外務大臣を兼務

1982.9 第二院選挙後、首相候補を辞退

ベアトリクス Beatrixベアトリクス Beatrix(1980-2013)

1982.11.4

1986.7.14

第1次ルベルス内閣CDA/VVD

「ノー・ナンセンス政策」

1981 米新型巡航ミサイル配備反対デモ

1982.11.24 ワッセナー合意:長期の賃金抑制、雇用確保、労働時間短縮、より柔軟な労働形態の容認について労使合意を取り付け

ワッセナー合意

1983.10.29 ハーグで約55万人参加の反核集会

19846.1 米ソ軍縮交渉が決裂した場合にオランダに核ミサイル配備を実行することを宣言

1985.11 オランダに核ミサイル配備を最終決定(→ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ開始により核ミサイル配備は見送り)

1986.1 12番目の州としてフレヴォラント州成立

フレヴォラント州

1986.2.17 単一欧州議定書の署名(ルクセンブルク)

1986.2.28 単一欧州議定書の署名(ハーグ)

1986.4.26 チェルノブイリ原発事故

チェルノブイリ原発事故

1986.7.14

1989.11.7

第2次ルベルス内閣CDA/VVD

1987.7.1 単一欧州議定書の発効

1988.6.10 – 6.25 第8回UEFA欧州選手権で、フリット、ファン・バステン等のオランダチームが優勝

第8回UEFA欧州選手権

1989.11.7

1994.8.22

第3次ルベルス内閣CDA/PvdA

1990.11.24 フルンリンクス(緑の左派党)が正式に設立

フルンリンクス(緑の左派党)

1992.2.7 欧州連合(EU)の創設を定めたマーストリヒト条約が署名

1994.6.21 安楽死が最高裁判所の判決により認められる

1994.8.22

1998.8.3

第1次コック内閣PvdA/VVD/D66

1990年代 オランダの軌跡を生んだ政労使合意のあり方を「ポルダー・モデル(オランダ・モデル)」と呼ぶ

1995.7 たオランダ軍の国際連合平和維持活動隊が「スレブレニツァの虐殺」を防げず

スレブレニツァの虐殺

1997.10.2 アムステルダム条約の署名(欧州連合(EU)の基本条約に大幅な変更)

1998.6.1 欧州中央銀行(ECB)が設立、初代総裁にウィム・ドイセンベルクが就任

ウィム・ドイセンベルク

1998.8.3

2002.7.22

第2次コック内閣PvdA/VVD/D66

2000 日本・オランダ交流400周年

2000.5 天皇・皇后のオランダ訪問

2001.2.26 ニース条約の署名(欧州連合(EU)の基本条約のうち、ローマ条約とマーストリヒト条約について修正、中欧への拡大のため統治メカニズムの効率化)

2001.9.11 アメリカ同時多発テロ事件

アメリカ同時多発テロ事件

2002.1.1 ユーロ導入

ユーロ

2002.2.14 候補者リストレイスト・ピム・フォルタイン(LPF)が設立

候補者リスト・ピム・フォルタイン(LPF)

2002.4.1 安楽死法(Eutha- nasia Act)が発効

2002.5.6 ピム・フォルタインが総選挙の運動中に暗殺される

ピム・フォルタイン

2002.7.22

2003.5.27

第1次バルケネンデ内閣CDA/LPF/VVD

2003.3.11 ハーグに国際刑事裁判所が設立

国際刑事裁判所

2003.5.27

2006.7.7

第2次バルケネンデ内閣(CDA/VVD/D66

2004.11.2 映画製作者テオ・ファン・ゴッホがアムステルダムでイスラム教徒青年に殺害される

テオ・ファン・ゴッホ

2005.6.1 欧州憲法条約の批准を国民投票で否決

2006.7.7

2007.2.22

第3次バルケネンデ内閣(CDA/VVD

2006.2.22 自由党(PVV)が設立

自由党(PVV)

2007.2.22

2010.10.14

第4次バルケネンデ内閣(CDA/PvdA/CU

2007.12.13 リスボン条約の署名(既存の欧州連合(EU)の基本条約を修正)

リスボン条約

2010.6.9 極右政治家ヘルト・ウィルダース(ヘールト・ウィルデルス)率いる自由党(PVV)が支持拡大

ヘルト・ウィルダース(ヘールト・ウィルデルス)

2010.10.14

2012.11.5

第1次ルッテ内閣VVD/CDA

4カ月近くにわたって連立協議した後に成立、自由党(PVV)の閣外協力を受ける

緊縮財政を巡って自由党党首のヘルト・ウィルダースと対立、ルッテの内閣総辞職後、総選挙で自由民主国民党が第1党となる

2012.11.5

2017.10.26

第2次ルッテ内閣VVD/PvdA

2013.4.30 ベアトリクス女王が退位し、ウィレム・アレクサンダーが即位

2014.7.17 オランダ人193名が搭乗していたマレーシア航空17便撃墜事件

マレーシア航空17便撃墜事件

2016.4.6 ウクライナ・欧州連合連合協定の承認に関する諮問国民投票が否決

ウクライナ・欧州連合連合協定の承認に関する諮問国民投票

2017.3 オランダ・トルコ外交事件

オランダ・トルコ外交事件

2017.10.26

2022.1.10

第3次ルッテ内閣VVD/CDA/D66/CU

2018.3.21 オランダ諜報・治安サービス法の国民投票の否決

オランダ諜報・治安サービス法の国民投票

2018.9 育児補助金の不正受給問題が世間に注目される→第3次ルッテ内閣総辞職の原因となる

育児補助金の不正受給問題

2022.1.10

2024.7.2

第4次ルッテ内閣VVD/CDA/D66/CU

2023.7.7 難民流入抑制策を巡る与党間の協議が決裂→次期政権までの暫定内閣へ

8.14 ディラン・イェスィルギョズ=ゼヘリウス司法相が後任の自由民主国民党党首に就任、ルッテは17年間務めた党首から退く

2024.6.26 NATO 次期事務総長にルッテ首相が 正式決定

ウィレム=アレクサンダー Willem-Alexanderウィレム=アレクサンダー Willem-Alexander(2013-)

ディック・スホーフ
Dick Schoof

ディック・スホーフ Dick Schoof

無所属(元労働党(PvdA)所属)

2024.7.4

現職

参考リンク

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