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社会学史 第二世代 マクロ社会学

社会学史 第二世代 マクロ社会学 リベラルアーツ
「デュルケーム」「テンニース」「ヴェーバー」社会学史 第二世代 マクロ社会学

マクロ社会学の理論的確立

1880年代から1920年代にかけて、ヨーロッパとアメリカで新しい社会学の思潮が沸き上がる。

【フランス】
・タルド
デュルケーム

【ドイツ】
テンニース
・ジンメル
ヴェーバー

【イタリア/スイス】
・パレート

【アメリカ】
・クーリー
・ミード

第1世代のコントやスペンサーは在野の学者であり、大学とも学会とも無関係だったから、彼らの孤立した個人としての知的活動に留まり、学問としての制度化には程遠かった。

第2世代の社会学は、大学教授たちによって担われ、それだけ学問内容もアカデミックに洗練されていき、学問水準が著しく向上した。この段階から大学に社会学の講座ができ始め、社会学の学会の組織化が始まる。社会学の学問としての制度化が開始されたのはこの頃のことだ。

第2世代の大きな特徴は、❶マクロ社会学の理論的確立と、❷ミクロ社会学の誕生である。

以下では、❶マクロ社会学の理論的確立について学説史を追っていく。

デュルケーム

エミール・デュルケーム Émile Durkheim

ロレーヌ地方のエピナルでフランス系ユダヤ人の家系に誕生
パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)で学ぶ
リセで哲学の教授を務める
1886年にドイツに留学し、実証的社会科学の方法を学ぶ
1887年にアルフレッド・エスピナスに招かれボルドー大学の職に就く
1902年、ソルボンヌ大学の教育科学講座に転じる
第一世界大戦で旧友や息子を失う
1917年5月にソルボンヌの講義を中止し、静養に入る

デュルケームは、戦後に発展した機能主義的システム理論の先駆者として、社会学史上に決定的に重要な役割を占めている。

35歳の時、最初の大著で学位論文の『社会分業論』(1893)にて、コントおよびスペンサーのインダストリアリズムのテーゼを、分業という新しい視座から捉え直す。分業には経済的機能と社会的機能の2つがあり、社会システムには複数の機能的要件があることを指摘する。

分業の社会的機能を「機械的連帯から有機的連帯へ」という発展論的図式によって捉えた。機械的連帯とは、人々の類似に基づく結合であって、未開社会の環節的な社会構造に見合うものである。有機的連帯とは、人々の差異に基づく結合であって、産業社会の機能的に分化した社会構造に見合うものである。

前産業社会の構造原理「機械的連帯」が産業社会の構造原理「有機的連帯」への移行が社会システムの機能的要件の達成能力を高めるという観点から、構造と機能を結びつける構造-機能分析の考え方の原型となった。

次に『社会学的方法の規準』(1895)において、社会的事実のレベルでの機能的必要は、個人行為者のレベルでの有用性とか効用とは異なるとし、マクロとミクロの区別が必要とした。

ここでのマクロとは、社会システムがシステムとして存続していくために充足されねばならない「社会の」必要性を表す。ここでのミクロとは、生理的および心理的欲求を満たす「個人の」必要性を表す。

マクロとミクロは異なるレベルの概念であり、マクロがミクロから引き出し得ないことから、社会レベルは個人レベルに還元不可能であるとした。

ここから、社会の構造分析機能分析を構想し、構造分析を解剖学になぞらえ「社会形態学」、機能分析を生理学になぞらえ「社会生理学」と呼んだ。

構造も機能も固有に社会レベルに属する概念であり、単独の個人をどのように分析しても構造や機能が表出することはないとし、この両概念こそが社会学的分析における独自カテゴリーであると考えた。

デュルケームの社会分業論と社会学方法論は密接に関連しあっている。機械的連帯から有機的連帯への進化を、分業の機能によって説明し、その発展の原動力を社会形態学的事実と集合意識に求めた。

但し、この着想はスペンサーのテーゼに依拠することは認めたが、ベンサム的な功利主義的個人主義は、マクロとミクロを峻別する考えから排除した。

社会学的方法論の方は、2つの大規模な実証実験に適用した。

❶『自殺論』(1897):統計分析を多角的に用いた実証研究。統計に表れているトレンドの中に、個人意識を超える集合意識の表現を見ようとした。これには「社会学研究」というサブタイトルがあり、「社会的事実」を客観的かつ実証的に分析し、その実態を具体的な事例によって明らかにしようとした。

❷『宗教生活の原初形態』(1912):オーストラリア原住民の原始宗教を扱ったエスノグラフィーのモノグラフを社会学的に再解釈を試みた。宗教を「聖」と「俗」とを区別する表象(トーテミズム)と儀礼的行事であると定義した。

時間・空間・概念範疇をアプリオリであるとしたカントに対して、デュルケームは一切の表象の形成はアプリオリではあり得ず、個人の所産でもあり得ず、社会の所産としてのみ説明できるとし、トーテムの機能が氏族・部族の精神的統合の実現にあると結論付けた。

トーテミズムはあらゆる宗教の源泉であり、宗教は科学を含む一切の観念体系および社会制度の源泉であるから、一切の観念体系および社会制度は社会の所産であるとした。

デュルケーム社会学は、デュルケミズムと総称される学問の一大勢力となっただけでなく、イギリスにおいて機能主義人類学を創始したマリノフスキー、ランドクリフ=ブラウンによって継承され、さらに第2次世界大戦後のアメリカで、パーソンズ、マートンをはじめとする機能主義社会学によって引き継がれた。

テンニース

フェルディナント・テンニース Ferdinand Tönnies

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州生まれ
1872年にシュトラスブルク大学入学、その後、イェーナ大学、ベルリン大学などで学び、テュービンゲン大学で古典言語学の学位をとる
労働組合や協同組合運動に積極的に参加
フィンランドやアイルランドの独立運動を支援
1881年にキール大学の哲学・社会学の私講師、1913年に正教授となる
1909~1933年:ドイツ社会学会の会長を務める
1932~1933年:ナチズムと反ユダヤ主義を公然と非難したため、キール大学名誉教授の地位を奪われる

23歳でロンドンに留学し、ホッブス研究を通じてイギリス啓蒙主義の思想的系譜に接し、同時代にと一を支配していたサヴィニーが創始した歴史主義法学の伝統主義的ロマン主義を批判的に見るようになる。

コント、スペンサーのような啓蒙主義思想の伝統がないドイツで、コント、スペンサーの近代化理論をテーゼをドイツ化した『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887)により、ドイツ社会学興隆の出発点を作った。

ゲマインシャフト(人間が地縁・血縁・精神的連帯などによって自然発生的に形成した集団。 家族や村落など。 共同社会)からゲゼルシャフト(人間がある特定の目的や利害を達成するため作為的に形成した集団。 都市や国家、会社や組合など。 利益社会)というテーゼは、神学的・形而上学的段階から実証的段階へというコントのテーゼ、軍事型社会から産業型社会へというスペンサーのテーゼと共通項を持つ。近代化は不可避であり、伝統主義的ロマン主義の段階にとどまっていることはできないとした。

しかし他方で、ゲマインシャフトを解体させた近代社会を批判的に捉え、ゲゼルシャフトの中にゲマインシャフトの復活を展望し、ゲゼルシャフトの典型たる株式会社に代わるものとして、ゲノッセンシャフト(協同組合)の運動にコミットした。

テンニースは、ゲマインシャフトを、❶血のゲマインシャフト、❷場所のゲマインシャフト、❸精神のゲマインシャフトの3つに大別した。

血のゲマインシャフト:血縁共同体としての家族、親族関係(Verwandtschaft)
場所のゲマインシャフト:地縁共同体としての村落、近隣関係(Nachbarschaft)
精神のゲマインシャフト:仕事仲間を中心にした、友人関係(Freundschaft)

ゲマインシャフトでは、人々は利害を抜きにした「本質意志」によって持続的に結びつく。ゲマインシャフトは「真実の共同生活」であるとした。

ゲゼルシャフトは近代の株式会社および市場によって代表され、そこでは、人々は「選択意志」によって利害を媒介にして一時的に結びつく。ゲゼルシャフトは「外見上の共同生活」に過ぎないとした。

近代化とは、親族集団や村落共同体のようなゲマインシャフトを解体し、企業や市場のようなゲゼルシャフトを発達させるものである。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへというのは、近代化を社会関係の性質の変化として捉えた、近代化の社会学的把握方法のひとつなのである。

テンニースは、理論研究の他、失業・犯罪・労働問題・社会問題など、多方面の経験的研究にも励み、1932年には身を賭してナチス批判の論文を書いた。その後、ナチスに抗してドイツ社会学会を解散し、失意のうちに生涯を閉じた。

ヴェーバー(ウェーバー)

プロイセン王国エアフルトにて、敬虔なプロテスタントの裕福な家庭に長男として誕生
大学入学前に王立王妃アウグスタ・ギムナジウムで学ぶ
1882年からハイデルベルク大学法学部で法律学、ローマ法、国民経済学、哲学、歴史などを3セメスター(=一年半)学ぶ
1883年、シュトラスブルクにて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る
1889年、ベルリン大学で法学博士の学位を取得
1894年、30歳でフライブルク大学の経済学正教授として招聘
1898年、実父との確執とその直後の死によって神経を病み、大学を休職し療養生活に入る
1903年、病気のためハイデルベルク大学の教職を辞して名誉教授となる

ヴェーバーは、近代化論の問題を「資本主義の精神」という宗教社会学の視角から捉え、そこから延長して、西洋の社会学者として初の中国・インドを対象にした本格的な比較宗教社会学的研究を手掛けた。

その他、支配社会学・経済社会学・法社会学・政治社会学など多岐にわたる画期的な多くの研究を残した。

ヴェーバーは、博士論文『中世商事会社史論』、教授資格請求論文『ローマ農業史』にあるように、最初は法制史・経済史の研究者だった。1980年以降、社会政策学会のプロジェクト「東エルベドイツの農業労働者事情」を主宰し、フライブルク大学教授就任講演「国民国家と経済政策」(1985)を見るように、同時代的な経済政策問題に対しても発言するようになる。

フライブルク大学からハイデルベルク大学に転じ、32歳で歴史学派経済学のクニースの後任として国民経済学教授となる。ここでヴェーバーは精神疾患にかかり、長らく休講した後、1903年に39歳の若さで名誉教授となる。

病気回復後の最初の長大論文『ロッシャーとクニース、および歴史学派経済学の論理的問題」でもって歴史学派経済学を批判し、経済学者を辞めて行為理論という新分野を求めて社会学者となる。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904-05)にて、西洋世界における資本主義の精神はプロテスタンティズムの禁欲主義によって形成されたと提唱した。これに続き、「儒教と道教」(1916)、「ヒンドゥー教と仏教」(1916-17)にて、アジアの諸宗教は、キリスト教のように宗教改革による合理化を経ていないため、アジアには資本主義を起す精神的原動力はないとも主張した。

日本人として興味が沸くのは、ヴェーバーが日本についてどのように考察したかである。ヴェーバーは日本について独立した論文は書かなかったが、「ヒンドゥー教と仏教」において仏教が伝播した各地域を採り上げた中に日本に関する記述がある。

ヴェーバーによれば、日本は中国・インドと異なり、西洋と同じく封建制を経過していることに着目した。封建制が個人主義を助長するから、日本は独力で資本主義を作り得なかったとしても、「外からの完成品」としてこれを受け入れて発展させるだろうと述べた。まるでどこかで見てきたかのような表現であるが、この記述があるのは本当だ。

死後出版された『経済の社会』(初版 1921-22、第四版 1956、第五版 1972)は、編集者の意図がいろいろと絡み、構成が版により大いに異なる。本稿ではこの中から支配社会学を採り上げて概略を記す。

ヴェーバーの支配社会学は、❶伝統的支配、❷合法的支配、❸カリスマ的支配、の3類型区分によって構成されている。大きな流れ的には、「伝統的支配から合法的支配へ」と要約でき、テンニースの「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」と同様に、前近代社会から近代社会に移行する社会変動の性質の解明を意図したものであった。

伝統的支配は、近代以前の支配形態であり、「封建制」(地方分散的権力)と、「家産制」(中央集権的権力)という対照的な二大類型に区分されるとした。

両者の間には多様な中間形態(中間混合形態)があり、世界史的には相互に相いれないこの二大類型によって二分されているものと考えた。こうした歴史的把握は、マルクスにとっての普遍的な封建制の在り方とは異なった。

ヴェーバーからすれば、封建制は西欧中世と日本の中近世だけにしかなく、古代ローマ帝国、秦の始皇帝から辛亥革命までの中華帝国、中近東アラブのスルタン制諸国などは、いずれも家産的支配のバリエーションのひとつに過ぎないものとした。

封建制も家産制も、ヘル(支配者)の専制支配であることは共通だが、封建制は国が極端に小規模で、ヘル権力が及ぶ範囲が狭いため、富と権力が無数に分散していることを前提とする資本主義的市場経済への移行が自生的になされやすいと考える。

一方で、絶対的な皇帝権力に全ての富と権力が一極集中している家産制では、このような自生的な移行は発生しづらいとした。

ヴェーバーの支配社会学は、彼なりの近代化理論、引いては経済社会学とひとつながりのものであった。

ヴェーバーが歴史学派経済学を去り、新たな社会学という学問を切り開いたところに、彼の社会学としての方法論の性質が強く反映されている。

ヴェーバーが歴史学派経済学と決別した理由は、❶歴史叙述に重点を置く歴史学派の立場では理論と結びつき得ない、❷歴史学派が立てた唯一の理論ともいうべき、発展段階論が、多様な歴史的事実に照らして支持し得ない、というところにある。

❶について。

歴史学派のクニースは、人間行為を「意志の自由」の故に予測不可能なものであり非合理的なものであるとした。この前提では、到底行為理論は成立し得ない。

ヴェーバーは、人間行為を説明可能なもの、合理的なものとして捉えた。ヴェーバーの行為理論における行為の四類型は、①目的合理的、②価値合理的、③情緒的、④伝統的、である。これは、主観的に思われた「意味」の強調である。

彼が提唱した理解社会学は、彼なりの理論的工夫で合った。

❷について。

ヴェーバーは、発展段階論の「まるごと性」(Gesamtcharakter)を排し、分析的なカテゴリー区分で置き換えた理念型方法論に基づく分類学的カズイスティーク(決議論)の提示を軸にしている。

1919年、ミュンヘン大学教授として教壇に復帰するも、肺炎のため56歳の若さで急死する。

社会学の構造 The Structure of Sociology

理論経験歴史政策
総論社会学原理経験社会学社会史
社会学史
(学説史)
第一世代
第二世代
(マクロ社会学)

(ミクロ社会学)
社会問題
社会政策
社会調査
統計的調査
計量社会学
ミクロ社会学行為者の内部分析自我理論
社会意識論
ミクロ社会
調査・解析
ミクロ
社会史
ミクロ
社会政策
社会システム内の相互行為
と社会関係分析
相互行為論
役割理論
社会関係論
社会的交換論
マクロ社会学社会システム
構造論
マクロ社会
調査・解析
マクロ
社会史
マクロ
社会政策
社会システム
変動論
領域社会学内包的領域
社会学
基礎集団家族家族社会学家族調査家族史家族政策
機能集団企業組織社会学
産業社会学
組織調査・
モラール調査
組織史
労働史
経営社会政策
労働政策
全体社会
×社会集団
国家国家社会学国勢調査国家史福祉国家政策
地域社会農村農村社会学農村調査農村史農村政策
都市都市社会学都市調査都市史都市政策
準社会社会階層社会階層理論社会階層調査社会階層史不平等問題
外延的領域
社会学
経済経済社会学経済行動・
市場調査
(経済史)(経済政策)
政治政治社会学投票行動・
政治意識調査
(政治史)(政治政策)
法社会学法行為・
法意識調査
(法制史)(法政策)
宗教宗教社会学宗教行為・
宗教意識調査
(宗教史)(宗教政策)
教育教育社会学教育行為・
教育意識調査
(教育史)(教育政策)

参考リンク

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