啓蒙思想から社会学が誕生する
社会学は、経済学や政治学より遅れて、ヨーロッパ17世紀以来の啓蒙思想の後継者のひとつとして出発した。ヨーロッパ近代初頭以来の啓蒙思想の流れにおいて、近代化と産業化の方向を見定めようとする洞察から学問としての社会学が誕生したのである。
であるから、近代化革命と産業革命を真っ先に経験した先進国であるイギリス・フランス両国が社会学の祖を誕生させたのは道理である。
ヨーロッパの啓蒙思想は、ガリレオとニュートンにが中心となって担った科学革命が自然科学の枠外にまで広がり、経済思想・政治思想・社会思想に大きなインパクトを与えることで始まった近代合理主義精神の中核であった。
イギリスでは、ホッブスに始まり、ロック、ヒューム、スミス、ベンサム、ミル、スペンサーへ脈々とその精神受け継がれた。
フランスでは、デカルトを先駆として、パスカル、モンテスキュー、百科全書派、コンドルセー、サン=シモン、コントという流れを形成した。
時は19世紀に移り、「社会学」と銘を打つなら、イギリスにおいてはスペンサー、フランスにおいてはコントがその祖ということができる。
英仏の啓蒙思想は、その150年の歴史を通じて、近代化における社会の進歩のテーゼを定式化した。コントによれば、それは「三段階の法則」としてまとめられることになる。
「三段階の法則」とは、人間の精神が神学的、形而上学的、および実証的という3つの段階 (状態) をとって進化すると論じた法則で、「人類の知的進化の法則」と考えらえたものである。
さらに「三段階の法則」は表裏となる二面性で構造が説明される。表側は、神学的・形而上学的・実証的という「科学革命」に至るまでの三段階であり、近代化の精神を定式化したもので、「実証主義」思想をあらわす。裏側は、軍事的・法律的・産業的という「産業革命」に至るまでの三段階であり、近代化の物質面を定式化したもので、「産業主義」思想をあらわす。
この二重の近代化段階論といえる進歩思想こそ、近代化と産業化を説明するコントの社会思想の原点であった。
サン=シモンの実証主義は、コンドルセーの理性主義的進歩史観、科学と技術の進歩が理性の発達による人間精神の進歩を実現するという思想を継承したものである。サン=シモンとコンドルセーが共有していた社会事象を科学的に研究するという態度は、モンテスキューの法についての科学的研究を継受するものでもあった。
科学の進歩に対する明るい信頼は、パスカルに始まる「進歩の観念(idee de progres)」に由来し、最終的にフランス啓蒙思想の原点たるデカルトに帰着するものである。
コントが提唱した「実証主義」は、サン=シモンによって提唱された「憶測的」(conjectural)から「実証的」(positif)へという科学進化論のアイデアの継承であり、サン=シモンとコントが百科全書派と共有する科学主義の展開そのものであった。
このように、コントの実証主義は、フランス啓蒙主義の全系譜に連なるものであった。
対してスペンサーは、啓蒙思想のテーゼを「社会進化の法則」として捉えようとした。この社会進化の法則は、来るべき社会を単純社会に対する複合社会、軍事型社会に対する産業型社会として展望するものであった。
これはスペンサーがコントから学び取り、フランス啓蒙思想の帰結として受け取った進歩のテーゼを、イギリスで形成されつつあったダーウィンの生物進化論やベンサム、ミルの功利主義と融合させたものだった。
フランス啓蒙思想を源流とする近代主義思想は「実証主義」と呼ばれたのに対し、イギリス啓蒙主義の系譜に属する近代主義思想は「経験主義」と呼ばれた。
イギリス経験主義の系譜は、ロック、バークリー、ヒュームと流れ、フランスのサン=シモン、コントの実証主義よりずっと古い。
両者が思弁的な形而上学を非科学的と断じて排除する点で共通するのは、共に啓蒙思想を源流にしているからである。
初期のマクロ社会学
フランスのコントは、イギリスのスペンサーより22歳年長で、「社会学」(sociologie)という名称を創始したことで、社会学の祖と呼ばれるようになった。
コントの影響を受けて始まったスペンサーの社会学は、社会システム理論の先駆とされる「社会有機体論」として大成することになり、ここにマクロ社会学が誕生することになった。
コント
- イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント / オーギュスト・コント Isidore Auguste Marie François Xavier Comte(1798 – 1857)【仏】
南フランス、モンペリエ生まれ
エコール・ポリテクニックで数学を専攻
サン=シモンの助手となったが後に仲違いをする
エコール・ポリテクニックの演習指導員・試験係となるも理事者側と争いその地位を失う
自宅に弟子を集め講義を始め、その講義録を『実証哲学講義』(1830-42)としてまとめる
コントが社会学の祖とされるのは、『実証哲学講義』にて、社会学という学問名称と、社会についての「秩序の理論(社会静学)」と「進歩の理論(社会動学)」を提示したことによる。
コントの社会思想の原型は「社会再組織化のための科学的プラン」(1822)という独立論文にみられる。フランス革命によって破壊された旧秩序を、「産業主義」(インダストリアリズム)という新しい原理の上に建て直す、実践的意図の表明として構築された。
実証主義は、近代科学を緻密な計測や実験の手続きによるものとし、方法面から規定することで、「科学」を近代以前の「非化学」と明確な一線を引くものとする思潮である。
実証主義の考えによれば、ひとつの学問が「科学」たり得るためには、理論な単なる思弁によって立てられたものではなく、観察と実験によって理論が真であることが検証されなければならないとする。
実証科学は、17世紀におけるガリレオ天文学(地動説)においてはじめて成立し、万有引力の定式化によるニュートン物理学の輝かしい成功に導かれた科学革命で完成した。
物理学に続いて化学、生物学などが順に化学の水準に到達していったが、「社会」についての学問はまだ科学の水準に到達していなかった。コントが目指したのは、社会についての学問を実証科学の水準に引き上げることであった。
コントは在野の学者にとどまったが、コントの社会学思想は、第二世代に属するデュルケームによって継承されることとなる。
スペンサー
- ハーバート・スペンサー Herbert Spencer(1820 – 1903)【英】
イングランド、ダービーの非英国国教会(非国教徒)の家庭に生まれる
叔父トーマス・スペンサーの経営する寄宿学校でラテン語や数学、物理学などを学ぶ
ロンドン・バーミンガム鉄道の鉄道技師として働きながら著作活動を行う
経済誌『エコノミスト』誌の副編集長を務める
叔父の遺産を相続すると副編集長の職を辞し、在野の研究者として著述に専念
啓蒙思想の源流たるイギリスにおいて、社会学の学祖とされるのが『社会学原理』(全三巻 1876-96)を著したハーバート・スペンサーである。
コントから影響を受ける前に、最初の著作である『社会静学』(1850)を著した。この著書の主題は、ベンサムの功利主義思想を受け継ぎつつ、ベンサムの立法の原理において前提とされていた政府中心主義を批判し、国家をミニマムにする徹底した自由主義を説くことだった。
スペンサーは、J・S・ミルの『コントと実証主義』(1865)から影響を受け、『総合哲学体系』(全10巻 1862-96)の構成中、6巻-8巻からなる『社会学原理』を著した。
スペンサー社会学は社会有機体論と社会進化論を2本の柱としている。
社会とは一つの実在(entity)であり、目で見たり手で触ったりできる「もの」ではないが、諸部分間にコンスタントな関係がある一種の実態である、と考える。コンスタントな関係とは、社会が有機体との間に平行関係(parallelism)を持つことを意味する。
平行関係を「同形性」(isomorphism)に置き換え、社会と有機体に機械を付け加えると、サイバネティクス的思考の出発点ともいえる。スペンサーの社会有機体説は、社会を単に有機体になぞらえるというアナロジーだけにとどまらず、社会と有機体の間に共通の原理が抽出可能である、という含意が込められている。
この意味で、現在社会学における「構造-機能理論」の先駆としての意義も持つといえる。
【社会と有機体の間の平行関係】
❶有機体に成長という現象があるように、社会にも社会成長という現象がある
❷有機体が成長して大きさを増すと組織と器官の内部分化を生ずるように、社会も成長と共に諸部分の数が増え、諸部分間の構造分化が進む
❸有機体では相互に異質な諸組織と諸器官の相互依存関係が生命ある全体を支えているように、社会では相互に異なった役割を受け持った諸集団や諸組織の相互依存関係が社会全体を支えている
❹有機体に進化という現象があるのと同じく、社会にも社会進化という現象がある
上記の❶における有機体は個体を指し、❷以降の有機体は種を意味する。
高等動物であっても社会であっても、スペンサーによれば、機能分化は、
(1)内層または維持システム:有機体-消化器官、社会システム-農業・工業
(2)外層または規制システム:有機体-感覚器官・運動器官、社会システム-軍事部門・政府部門
(3)内層と外層をつなぐ分配システム:有機体-循環器官、社会システム-運輸・通信・市場的交換
という三層構造として概念化される。
スペンサーの社会進化論の構造からすれば、社会は、順に下記のように進化していくとされる。
❶単純社会
❷複合社会
❸二重複合社会
❹三重複合社会
❺軍事型社会
❻産業型社会
スペンサーの社会学は、イギリスではホブハウス、ギンスバーグによって継承されたが、その後は発展しなかったが、サムナーが継承したことで、アメリカで広がることとなる。
ドイツの初期社会学
社会学は、19世紀ヨーロッパの啓蒙思想の中心地であった英仏で、近代社会の原理を求める学問として成立し、発展していった。
啓蒙思想がまだ弱かったドイツ・アメリカでは、科学革命と産業革命を理論化した思想家を輩出することが難しかった。
ドイツでは、啓蒙思想に代わるものとして、社会学の起源を、ヘーゲル、シュタイン、マルクスらの市民社会論に求めた。
ヘーゲルとマルクスは、社会学の語によって自らの学問を構造化しようとはしなかったから、彼らをドイツの社会学の祖と考えるのは難しい。
シュタインは「国家学」(Staatslehre)に対比されるものとして「社会学」(Gesellschaftslehre)を構想したので、ドイツ社会学の祖と言えなくもないが、シュタインの社会学は国家学の補助学問のような位置に留まり、コントやスペンサーの社会学とはつながりを持たなかった。
ドイツにおける第一世代は、独自の社会有機体論を展開したリリエンフェルトとシェフレである。彼らを継承して、テンニース、ジンメル、ヴェーバーら社会学第二世代によってドイツ社会学が急成長することになる。
- ローレンツ・フォン・シュタイン Lorenz von Stein(1815.11.18 – 1890.9.23)【独】
アメリカの初期社会学
アメリカもドイツ同様、19世紀にはまだ英仏に比べて後進的で、英仏と同時期の社会学第一世代は得られなかったが、スペンサーより約20年遅れて現れたサムナー、ウォードを第一世代になぞらえることはできるかもしれない。
二人は、スペンサーの社会進化論から強い影響を受けて、ウォードは『動的社会学』(1883)、サムナーは『フォークウェイズ』(1907)を著した。
アメリカの社会学は20世紀に入ると急成長し、社会学はアメリカン・サイエンスとまで言われるようになる。
- ウィリアム・グラハム・サムナー William Graham Sumner(1840.10.30 – 1910.4.12)【米】
- レスター・フランク・ウォード Lester Frank Ward(1841.6.18 – 1913.4.18)【米】
日本における社会学第一世代
日本の近代化と産業化は、英仏はもとより、独米よりさらに後発であったから、英仏と同時代的な社会学第一世代は存在しない。
日本では、明治6年に森有礼の提唱によってつくられた啓蒙思想家たちの思想結社である明六社系の知識人らが日本に導入した西洋啓蒙思想の中に、コント、スペンサーらが含まれていたのが日本の社会学思想の源流である。
明治啓蒙思想はヨーロッパ近代に指向し、自由と平等の精神を求め、明るく進歩的なものであった。
明治後期に入ると、明治憲法体制のもとに、日本は次第にナショナリズムを指向するようになる。そして、過度に欧化主義・泰西主義を排斥し、自由と平等より儒教と天皇制に指向するようになった。
本来は、近代化理論たることを固有の職能としていた社会学であったが、明治後期に入ると、ナショナリズム指向に向けて変化していく。
明治前期の社会学
明六社系知識人の間で最も広く読まれていたのは、福沢諭吉の『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』であった。福沢は西洋近代思想を日本に導入することに努めていたが、専ら、アメリカの経済思想家ウェイランドの諸著作に依拠していたので、社会学に関する記述は少ない。
初期の著作『西洋事情』では、社会学を「人間の交際の学」とし、「人間の交際は家族を以て本となす」と記述していた。当時はまだ、「society」は「交際」と和訳されていた時代である。
福沢によれば、近代化の担い手は中間階級(ミッヅルカラッス)であり、中間階級の厚い層が形成されることこそ、文明の進歩の担い手であるとされていた。
日本で最初に受け入れられたのはスペンサーの著書『社会静学』(松島剛により『社会平権論』として1881年に日本語訳で出版)で、自由民権運動の中心的指導者である板垣退助によって自由民権運動の教科書とされ、当時の日本の啓蒙思想の中心となった。
しかし、『社会静学』はスペンサー思想の原点ではあるものの、コントの影響を受ける以前の著書であり、スペンサーの社会有機体論と社会進化論が定式化される以前のものであった。
この2論が日本に紹介されたのは、スペンサー著『社会学原理』の第1巻が乗竹孝太訳で1882年、第2巻が浜野定四郎・渡辺治訳で1884年となってからだった。
その後、有賀長雄が日本で最初の社会学書『社会学』(1883-84)でスペンサーの社会進化論を紹介した。有賀はその後、シュタイン研究を通じて国家学に転じることとなる。
スペンサー社会学を衛米留学から持ち帰ったのは、東京大学で最初の社会学の講座担当者となった外山正一で、「スペンサーの番人」と呼ばれた。
日本では、コントよりも後のスペンサーの思想の方が先に紹介され、翻訳され、講義された。このことは、スペンサー思想が、福沢諭吉をはじめとする明治前期の啓蒙派知識人たちが求めていた自由と平等の理念によく適合していたことによる。
明治前期における文明開化と自由民権の波に乗り、近代思想の最先端として、スペンサー社会学が知識人に広く受け入れられることになった。
- 有賀 長雄(1860.11.13 – 1921.6.17)
- 外山 正一(1848.10.23 – 1900.3.8)
明治後期の社会学
明治政府が明治憲法体制に向けて次第に自由主義を弾圧するようになると、有力な学者の中にも、加藤弘之のように、天賦人権論の立場を採りながら、後に否定する転向者が現れるようになる。
明治前半期には文明開化の名のもとに、西洋の啓蒙主義的合理主義を熱狂的に受け入れていたものが、明治後半期には、一転して日本固有の思想を求めてナショナリズムの時代に変わった。
日本に初めてコント社会学が紹介されたのは、フランス留学から帰国した建部遯吾『理論普通社会学』(全四巻 1905-18)によってであった。
コントの日本への紹介がスペンサーにずっと遅れただけでなく、日本でのコントのイメージは、実証主義という革新的な科学的精神の主唱者としての面がすっぽり落ちて、フランス革命後の秩序の回復を求めた保守主義者として理解されるようになった。
日本へのコント紹介者である建部自身が国粋主義者であり、コントの社会有機体の概念を儒教と結び付け、コントの社会動学を日本の天皇主義的国体論と結び付けたことによる。
コントの著作は『社会再組織化のための科学的プラン』やそのほかの若干の著作を除いて和訳もされず、スペンサー程の人気も出なかった。
外山正一が明治前期の文明開化と自由民権の時代を背景に自由主義的であったのに対し、23歳若く、外山に次いで東京大学の二代目の社会学の講座担当者となった建部遯吾は、明治後期の明治憲法体制とナショナリズムの時代を背景に日本主義・東洋主義の立場を採った。
- 建部 遯吾(1871.5.10 – 1945.2.18)
社会学の構造 The Structure of Sociology
理論 | 経験 | 歴史 | 政策 | ||||
総論 | 社会学原理 | 経験社会学 | 社会史 社会学史 (学説史) 第一世代 第二世代 (マクロ社会学) (ミクロ社会学) | 社会問題 社会政策 | |||
社会調査 統計的調査 計量社会学 | |||||||
ミクロ社会学 | 行為者の内部分析 | 自我理論 社会意識論 | ミクロ社会 調査・解析 | ミクロ 社会史 | ミクロ 社会政策 | ||
社会システム内の相互行為 と社会関係分析 | 相互行為論 役割理論 社会関係論 社会的交換論 | ||||||
マクロ社会学 | 社会システム 構造論 | マクロ社会 調査・解析 | マクロ 社会史 | マクロ 社会政策 | |||
社会システム 変動論 | |||||||
領域社会学 | 内包的領域 社会学 | 基礎集団 | 家族 | 家族社会学 | 家族調査 | 家族史 | 家族政策 |
機能集団 | 企業 | 組織社会学 産業社会学 | 組織調査・ モラール調査 | 組織史 労働史 | 経営社会政策 労働政策 | ||
全体社会 ×社会集団 | 国家 | 国家社会学 | 国勢調査 | 国家史 | 福祉国家政策 | ||
地域社会 | 農村 | 農村社会学 | 農村調査 | 農村史 | 農村政策 | ||
都市 | 都市社会学 | 都市調査 | 都市史 | 都市政策 | |||
準社会 | 社会階層 | 社会階層理論 | 社会階層調査 | 社会階層史 | 不平等問題 | ||
外延的領域 社会学 | 経済 | 経済社会学 | 経済行動・ 市場調査 | (経済史) | (経済政策) | ||
政治 | 政治社会学 | 投票行動・ 政治意識調査 | (政治史) | (政治政策) | |||
法 | 法社会学 | 法行為・ 法意識調査 | (法制史) | (法政策) | |||
宗教 | 宗教社会学 | 宗教行為・ 宗教意識調査 | (宗教史) | (宗教政策) | |||
教育 | 教育社会学 | 教育行為・ 教育意識調査 | (教育史) | (教育政策) |
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